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隈部 兼作 ロシア・ユーラシア政治経済ビジネス研究所代表取締役

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片岡:   今月のインタビューはロシア・ユーラシア政治経済ビジネス研究所所長の隈部兼作さんです。ロシアは日本の隣国であり、世界のキープレーヤーでありながら、我々一般の日本人には、なんとも遠く、理解しがたい国となってしまっています。そして世界のバランスを決定的に変えたソ連崩壊後も、我々の頭は冷戦構造から抜け出せていないともいわれています。本日は、東欧革命やソ連崩壊などに実際にかかわり、その後も一貫して日ロ関係にご尽力されてきた隈部さんに、ロシアや日ロ関係を理解するヒントを頂きたいと思います。それでは、まずソ連崩壊のについてお伺いしたいと思います。宜しくお願い致します。

隈部:   ゴルバチョフ書記長の登場した1985年当時のソ連は、新冷戦の中で経済的にも非常に疲弊した状況でした。79年に開始したアフガン戦争は泥沼に陥り、軍事支出も増大し、国内では厭戦気分が広がり出していました。またソ連の財政は、主要輸出品である原油価格が73年の第一次石油ショック以降急上昇したものの、ゴルバチョフ書記長時代には半分程度に低下し、大変厳しい状況でした。書記長も本当の財政赤字の規模は分からなかったようです。市民生活にとって重要な穀物生産も不安定でした。米国との関係では、ゴルバチョフ書記長が登場する前にレーガン大統領が打ち出したスターウォーズ計画に対抗しなければとの軍部の意向もありましたが、ソ連にはそれに対抗できる資金も軍事技術もありませんでした。西側諸国は第一次石油ショックで油価が高騰したときから省エネ技術を発展させ、重厚長大から軽薄短小を意識した技術開発を促進しましたが、ソ連は原油輸出国であったため、西側諸国に比べ省エネなどの新技術の開発への関心は低く、ココム規制もあったことから西側の軍事に適応できる設備や技術を導入することは出来ず、80年代後半のロシアの産業・軍事レベルは西側諸国に後塵を拝する状況でした。

片岡:   アンドリュー・マーシャル米国防総省総合評価局局長の「ソ連に多大な軍事費負担を発生させる戦略を採用してソ連の経済的な破綻を速める」という戦略ですね。しかし、それがあれほど、急速な崩壊まで繋がったのは、なぜでしょうか。

隈部:  ゴルバチョフ書記長は改革派を登用する人事を進め、86年2月の第27回ソヴィエト大会で「ペレストロイカ」を提示しました。これは、ソ連の現状を「発達した社会主義」と規定して礼讃し問題そのものの存在を認めようとしなかったこれまでの公式見解を否定し、停滞と混乱を認め計画経済を絶対視する硬直した社会体制の見直しを図ろうとするものでした。この段階では市場経済の導入を目指す「上からの」経済改革にとどまっており、社会主義そのものを否定するものではありませんでしたが、国民からはこれまでとは全く異なる新鮮な指導者と評価され、人気を博しました。
翌86年4月、チェルノブイリ原発事故が起こります。世界の原発史上初の大事故でゴルバチョフ政権にとっては大打撃でした。ソ連の政治的権威が低下し、ソ連の技術・社会組織に対する信頼感が一挙に崩れていきました。この事故を最初に知ったのはスウェーデンの観測所ですが、ゴルバチョフに知らせが入ったのはかなり後になってからとのことで、ゴルバチョフ書記長はこれを国家的な敗北と認識し、この事故は偶然ではなくソ連の技術体制の遅れを温存していた社会体制、政治体制に根ざした結果だと認識して、立て直しが急務と考えたようです。また、この事故は核抑止論に依拠する従来の外交戦略に対する大きな警鐘となり「新思考外交」が生まれる一つの要因になりました。
ゴルバチョフ書記長は、経済改革を進めようとしますが、既得権益に固執する共産党官僚の抵抗があったため、改革は政治改革に踏み込まざるを得なくなり、「グラスノスチ」(情報公開)を推し進め、同時に歴史の見直しなど全面的な改革を開始しました。 この段階では、スターリン体制から続くソ連の硬直した政治と社会から脱却することを目指していましたが、社会主義体制そのものを否定するものではなく、その生き残りを図ろうとしたものでありました。このようなペレストロイカの進展に対してエリツィン等の急進派は不十分だと批判し、保守派の党幹部や軍上層部は危機感を抱いて反発しました。ゴルバチョフの改革も当初は「上からの改革」という面が強かったのですが、次第にその意図を越えて非共産党員の一般市民・大衆に支持が拡大し、次第に「下からの改革」になってきました。
89年3月には初めて複数立候補制による人民代議員選挙が行われ、5月に第1回人民代議員大会が開催されました。ペレストロイカの政治改革はついに90年には共産党一党支配の否定、大統領制の導入にまで進み、ゴルバチョフが人民代議員大会で初代ソ連大統領に選出されることになります。
また、ゴルバチョフはそれまでソ連の公式指針であった制限主権論を放棄して、「新思考外交」を掲げて東欧諸国へのコントロールも停止しました。これにより東欧諸国が一気に社会主義を放棄する東欧革命をもたらしただけでなく、バルト三国などソ連を構成する諸国、諸民族の分離独立運動も誘発し、連邦制の維持か各国の分離独立かが大きな焦点となっていきました。肝心の経済改革は、計画経済を完全に廃止するものではなくかえって混乱し、物不足からインフレが進行し89年頃からは物価の上昇が市民生活を直撃するようになりました。ペレストロイカ経済政策は失敗ととらえられるようになり、民衆の不満が強まりました。
またゴルバチョフの各種改革により幾つかの連邦構成共和国では民族主義が台頭し民族間の暴力事件が発生するなど、以前の様にクレムリンが連邦構成共和国を制御できる力はなくなっていきました。こうした共産党権力の否定、ソ連邦解体の動きに共産党保守派は危機感を募らせ、91年8月にクーデターを起こしてゴルバチョフを監禁し、共産党による支配と連邦制の維持を図ろうとしました。しかし、特殊部隊(オモン)のサポートを受けたエリツィン率いるモスクワ市民がクーデターに反対したため、その企てはあっけなく失敗しました。こうしてソ連共産党の消滅とソ連邦の崩壊という誰もが予想しなかった急激な変化が生じ、改革運動の実権はロシア共和国のエリツィンに移り、ゴルバチョフのペレストロイカ時代は終わりを告げることになります。

片岡:   何故、エリツィンが力を増してきたのでしょうか。

隈部:   色々な理由があると思いますが、まずゴルバチョフは米国を信じ過ぎたと思います。ゴルバチョフは米大使館に仕掛けられた盗聴器の位置まで教えていたのに、逆はありませんでした。またゴルバチョフのペレストロイカが行き詰まり、エリツィンが米国を訪問して米大統領と面談した後、米国はゴルバチョフからエリツィンに乗り換えたと言われています。当時のソ連の通信技術は欧米に比べ貧弱で、ソ連の重要な情報の大半は米国に筒抜けでした。ソ連国内での権力闘争に関する重要な情報はエリツィンに伝えられていたようです。保守派のクーデター失敗後、ゴルバチョフの力はなくなり、エリツィンに政権を乗っ取られます。この時は、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの3大統領が集まってソ連から離脱することを決めたのですが、彼らはゴルバチョフに伝える前に、米大統領に電話で「ソ連を崩壊させる」と伝えたと言われています。結果的に、経済・財政基盤がぜい弱な時に開始されたゴルバチョフの改革は、最終的にはソ連及び共産党を崩壊させたいと考える米国の戦略に利用され、米国に従うエリツィンを新生ロシアの大統領に就任させる形になったといえます。

片岡:   新生ロシアが誕生したエリツイン時代はどのような状況でしたか。

隈部:  今お話ししたような経緯からエリツインが新生ロシアの大統領になったわけですから、その後のエリツィンの政策のほとんどが米国寄りのものになりました。ソ連という超大国が15の国に分裂し、従来の産業連関が崩壊した状況で大統領に就任したエリツィンは、世銀・IMF主導のショック療法(価格自由化、緊縮財政、貿易自由化、民営化等) を採用し、社会主義から市場経済への体制移行に着手しました。史上初めての試みに旧ソ連国民は立ち向かうことになり、大変な苦難が待ち受けていました。市場経済への移行には、まずは財・サービス取引のルール体系を作らなければなりません。スポーツでもルールなしで試合をしたらどうなるか分かると思いますが、まともな規則作りをせずに価格の自由化や民営化など色々な制度を導入しました。その結果、資源等を不正に蓄財した政商(オリガルヒ)が政治に介入し、自分達に都合の良い政策を推進したところ、ハイパーインフレ、通貨の暴落、失業者の急増、未払賃金の増大、企業間債務問題の激化、地方政府の財政赤字拡大を招き、所得格差が拡大しました。所有権も確立されず、企業の収益は国内投資に回らずに海外への資本逃避が増加しました。90年代半ばにはロシアの実質GDPはソ連時代の約6割に縮小し、失業対策や貧国対策もなく国民の不満は高まり、内閣が頻繁に交代するなどまともな経済政策が遂行できない状態に陥りました。街には物乞いや物々交換する市民が大勢立っていました。
私もロシアの友人から、戦争で負けたわけでもないのに何故このような苦難な生活をしなければならないのか、悔しい、と何度も言われました。また治安も悪くマフィアの抗争が激化し、夜の街を歩くのは本当に怖い状況でした。加えて地方の首長が中央政府の指示に従わず、このままでは新生ロシアは分裂するのではないかと危惧されました。ロシア社会は大きく混乱し、アジア金融危機のあおりを受けて98年8月に金融危機が発生すると、ロシア政府はデフォルトを宣言し、遂に経済が破綻しました。90年代は国際政治の舞台でもロシアの存在感は薄れ、ロシアを無視または馬鹿にした発言が多くなされ、ロシア国民は悔しい思いをしたのではないかと思います。結局、世銀・IMF主導のショック療法は失敗に帰し、ロシア国民を厳しい生活レベルに落ち込ませた責任はゴルバチョフとエリツィンにあるとされ、エリツイン大統領の支持率は一桁代に低下しました。99年末、同大統領は突然辞職し、プーチン首相が後継に指名されました。
因みに、ソ連崩壊後にモスクワで行われた国際会議では、日本の学者の方々がショック療法の問題点を最も的確に指摘していました。東欧改革に携わっていた私も同感でした。ソ連という国が崩壊し社会主義から資本主義、計画経済から市場経済への移行という史上初めての改革をしなければならなかったわけです。当時のロシア企業の経営者とお話しても、計画経済の仕組みが染みついていますから、お金を借りるということの意味もよく分かっていませんでした。そのような状況で、3年間など期間を区切って財政赤字解消のための超緊縮財政や価格自由化等の目標をたて、達成できなければ新規融資を実施しないなどというショック療法が成功するわけはなく、社会や政治が混乱するのは必至でした。

片岡:   さて、そういう中でプーチン大統領が登場したわけですが、何故、これほど強いのでしょうか。

隈部:  プーチン大統領は就任後、90年代の混乱を治めるために世銀・IMF路線と決別し、「強い国家」を標榜して中央集権化を進め、オリガルヒには経済活動を認める代わりに政治に介入しない事を約束させました。経済は00年~07年に年平均7%の成長を遂げ、政治・社会も安定しました。先ほどの大幅な政策転換に加え、油価の上昇という外部要因が経済成長に大きく貢献しました。主要輸出品である原油価格の上昇は経常収支黒字の拡大と歳入の増加をもたらし、90年代に苦しんだ財政赤字が黒字になりました。また、BRICsの1つとして注目されたことから、海外からの投資や借入も増大し、企業の投資や個人消費、社会保障支出が増大し、ロシア経済は右肩上がりの経済成長を遂げ、国民の生活レベルは向上しました。
また、チェチェンによるテロ事件(真相は不明ともいわれている)に対して軍隊を派遣し、事態を鎮静化させたこともロシア国内のプーチン人気の一つの要因になっていると思います。98年のグルジア紛争では、ソ連崩壊後に米国の影響力が強まっていたグルジアとの戦争に勝利し、90年代に無視されてきたロシアの存在を国際的にアピールできたとの感情をロシア国民に抱かせ、プーチン大統領の支持率は上昇しました。エリツィン時代は地方が中央政府の指示に従わないなどロシア連邦自体が再度分裂してしまうのではないかと危惧する声もロシア国内では聞かれました。90年代はマフィアが地方を支配しているのではないかと言われるぐらいマフィアが闊歩していましたが、プーチン大統領は強権を使って地方をコントロールし、マフィア対策を行って治安が改善したことから、多くのロシア国民はプーチン大統領が混乱していたロシアを救い、生活レベルを向上させてくれたと考えています。一言でいうならば、プーチン大統領はロシアの救世主とみられているのかもしれません。いずれにしても、プーチン大統領が出てくるまでのロシアの苦難を知らない人たちには理解できないと思います。

片岡:   東欧は如何でしたか?

隈部:   ペレストロイカ時代、東欧からは以前に比べて考えられないくらいの情報が出てくるようになりました。例えば、ブルガリアは1980年代のはじめに債務危機に陥り、この時はソ連の支援を受けたのですが、80年代後半には再び厳しい状況になっていました。87年にブルガリアの大蔵大臣と会ったとき、彼が「ロシアからはっきりと、もう助けられないといわれた」と言いました。ブルガリアはソ連の16番目の共和国と言われたほどかわいがられた国です。まだこの頃はソ連がどうなるのかわかりませんでしたが、「東欧は崩れる」と直感しました。そして出張のたびに関係省庁に現地の状況を報告し、東欧支援策の策定にもかかわりました。ゴルバチョフがペレストロイカや新思考外交を推し進めなければ、このような情報をとることはできなかったと思います。
東欧では、色々な案件に関わりました。ハンガリー国立銀行に対して世銀との協調融資の第一号案件をうちました。その背景には、80年代の半ばから邦銀がシンジケートローンなどで同国にかなりのエクスポージャーを積んでいたことがあります。東欧の混乱が始まると、邦銀はみな手を引こうとして、デフォルトになる可能性が出てきました。日本の銀行が引き金を引くのはまずい…、そこで考え出したのが、世銀との協調融資でした。この時はまだ壁が崩れる前で皆に「敵に塩を送るつもりか」といわれましたが、実際に壁が崩れると「輸銀は最初にこんなことをしていた、よくやったね」と…。
他にも、ポーランドやチェコスロバキア等への支援を行いました。ポーランドは債務削減を要求してきました。ハンガリーの政府関係者のところには、隣の国のポーランドが債務削減をしているのだからハンガリー政府も同様に債務削減を要求すべきではないか、との圧力が各方面からあったようですが、当時の担当者に「借りたお金は必ず返すから心配しないでくれ」といわれた時には感動しました。一方、ポーランドは債権・債務を突き合わせるだけでも一苦労でした。その後ポーランド経済が成長しはじめたとき、成長できた要因の中の一つは債務削減をしてもらえたからだ、という言葉は同国政府からはありませんでしたが、ポーランドの「ワルシャワの蜂起」等の悲惨な歴史を知ると、複眼的視点で物事を見て自分なりの評価をしなければならないと思います。
東欧は国の経済規模が小さく、戦後になって社会主義を強いられたため、資本主義の本質をわかっている人たちがまだ残っていました。このためショック療法で財政赤字を削減し中央政府の赤字がある程度よくなれば、国全体をよくできる可能性はありました。また、東欧諸国のほとんどは、ソ連の支配から早く脱却し、欧州に入りたいとの意向がありましたから、それなりの苦難は覚悟していたと思います。

片岡:  次の大統領選挙後のプーチン政権はどうみたらよいのでしょうか。

隈部:  プーチン大統領は今回の選挙でも勝ちますが、憲法上その次はもう出来ません。あと6年です。どこかの段階で後継者を作らないといけません。徐々に人事の若返りを図っていますが、次の首相が次期後継者ではないと思います。次期政権の重要課題の一つは経済だと思いますので、首相には経済問題に明るい人物を就けるのではないかと思います。
今のロシアの経済成長率は、1.5~2.0%で、世界平均の3.7~3.9%より低い水準です。本当は世界平均より上をいきたいようですが、ロシアの経済は財政も輸出も過度に原油価格に依存してきました。出来る事ならば、2000年代に投資環境をよくして民間投資や外国投資を増大させればよかったのですが、それができなかったので新国家資本主義路線を採用し、国が主導する形で経済を引っ張ってきました。しかし今、それが逆に重石になってきており、以前のレーニンと同様に生産性向上を目指せと号令をかけ始めています。しかし、どのようにして改革を実行するのか、いまだ具体化されていません。原油価格もシェールオイルの出現により短期間で油価が急上昇することは見込めませんので、待ったなしで経済改革を断行できるかが重要なポイントになっています。しかし、そうした改革がこれまでのしがらみや既存勢力とぶつかることは必至で、実際にできるかは疑問との声が多い状況です。いずれにしても、経済が今後の中心に置かれるだろうと言われています。これがある程度はっきりしてくると、既存勢力とぶつかるので、実際にできるかは疑問の声もあります。

片岡:   次に日本とのビジネス面についてお伺いしたいと思います。少し戻りますが、ペレストロイカ後、各国が頭脳も権益も奪い合う中で日本企業はどうしていたのでしょうか?

隈部:   元々日ソ貿易は、専門商社や大手商社がやっていました。実はソ連時代の方が仕事は楽だったと思います。というのは、社会主義経済ですから、貿易公団の窓口があって商売はすべてモスクワで済ませることができました。契約に至るまでは結構厳しい交渉をしましたが、契約すると後は皆で酒を飲んでいました。ところが、ペレストロイカの頃には資金も乏しくなって、対外債務の返済ができなくなってきました。その結果、日本の商社の大半は債務を抱えて新生ロシアなってからも打って出ることができなくなってしまいました。せいぜい政府の支援の枠組みであればやろう、輸銀のファイナンスのようにリスクのない枠組みだったらやろうという程度です。また元々日本企業は重厚長大案件が主流でしたので、ロシアになるとどういう産業ができてくるかということを考えてシフトチェンジすることができませんでした。欧米企業に聞くと、ソ連が崩壊し次に自分たちがビジネス出来る分野はなにかといえばソ連時代になかったものだ、であればサービス業だ、そういってスーパーマーケットやホテルなどの分野にどんどん入ってきました。韓国はソ連が崩壊した後に国交を結んで、昔の日本の商社のように汗をかきながら必死に売り込みをやり、支払い方法も後払いを認めるなどリスクを取ってシェアを拡大していきました。当時、日本企業は100%前払いでないと取引を受けませんでした。そうでなければ本社の決済が下りないですから…。韓国はそのせいで金融危機のときに痛い目にあいましたが、それでも積極的に市場に参入してシェアを拡大しています。一方、日本企業はグローバリゼーションの中で「別にロシアじゃなくてもいい」「市場はもっと別にある」と…。私自身も、モスクワの首席をしている頃は、日本企業の方々に対してホームランではなくヒットエンドランを狙ってください、とよく言っていました。出来る限りリスクを小さくするビジネスをお薦めしていたのです。今もロシアの企業審査は難しいですが、当時、ロシア企業の審査を行うということはまず不可能に近い状況でした。日本企業が積極的に動き出したのは、2000年代になって油価が上がり、トヨタが工場を出してからです。

片岡:  2016年12月には、プーチン大統領も来日し、日ロビジネスの機運は高まってきている反面、日ロ間の感情の方はまだまだのようですが…。

隈部:   安倍政権はあらゆる分野で日ロ交流を深め、経済協力を拡大し、領土問題を解決して平和条約を締結しようと官邸主導で努力されています。その結果、これまでロシアとの関係が希薄だった省庁や企業が新たにロシアとの関係を構築してきています。これは、大変良いことだと思います。
しかし、内閣府の外交の世論調査によれば、日ロ関係が「良好ではない」と考えている日本人の割合は、ソ連崩壊時とプーチン大統領が初来日した沖縄サミットのときを除いて65~70%で推移しています。ロシアに「親しみを感じない」とする人の割合も8割前後で、この傾向は調査開始以来変わっていません。背景には、日本人捕虜のシベリア抑留問題や、北方領土問題があると思います。日本では終戦直後からソ連に関する報道は少なく、大半は悪いニュースしか報道されないため、日本人のロシアに対するイメージは「寒い、暗い、怖い、物不足」というのが定着してしまいました。ソ連が崩壊し新生ロシアになったあとも、エリツィン時代の社会の混乱やマフィアのイメージが加わり、大半の日本人は今もそのイメージを引きずったままだと思います。また、ロシアが未だ社会主義国と思っている方々もいます。
一方、ロシア人が日本との関係をどう見ているかというと、ロシアの民間調査機関レバダセンターによれば、ウクライナ問題で日本が制裁に加わるまでは、「関係が良い」とする人の割合は、60~80%台で推移していました。ウクライナ問題の影響から14年9月の調査で38%に低下しますが、15年には46%に回復しています。また、BBCの世界世論調査でも、「日本は世界にいい影響を与えていると思うか」との問いに対し、半数近くの人が「はい」と答えています。このように、ロシア人の方が遥かに日本に対しては好意的といえます。これは、日ロ戦争でのロシア人捕虜への親切な対応、日本の武士道に対する高い評価、戦後日本の奇跡的な復興、これまでの日本人ビジネスマンの誠実さなどが影響していると思います。ですから、初めてロシアを訪れる日本人の大半は、それまで描いていたロシアのイメージとは全く異なる好印象を持たれて帰られることが多いように思います。日本に入ってくるロシアの情報は、あまりにもテロやデモなどの政治問題に偏りすぎ、一般のロシア人がどのような生活をしているのか、日本人にはよくわかりません。以前、講義を担当した大学で、モスクワのディスコを紹介したニュース映像を学生たちに見せたら、ロシアにもディスコがあるのですか、と驚いていました。ソ連時代にも似たようなものがあったのですが…。また、あるシンポジウムでロシアの経済規模や軍事費等を米国や日本と比較し、ロシアのドル建てGDPは米国の7%、日本の30%、一人当たりGDPは日本の20%、軍事費は米国の11%、米国の予算規模はロシアの16倍だと説明したところ、聴衆の方々から「この統計はどこからとったのか。嘘の統計ではないのか。ロシアは米中と同様の超大国ではないのか」と問われました。ロシアの基本的な統計を知らずに、ニュースでロシアのイメージを勝手に膨らませているのだと思います。ロシアはソ連時代の核兵器の遺産と効率の良い兵器に資源を注いでなんとか大国のイメージを保っていますが、経済力は米中にかないません。ソ連時代のような軍拡競争に参加することはできないと思います。
往来者数を見ても、日ロ12万人、日中887万人、日米500万人、中ロ296万人、米ロ46万人、米中467万人で、日ロ間の往来は圧倒的に少ない。これも日本人がロシアを理解できない理由のひとつになっていると思います。以前、日本企業のモスクワ駐在員の方たちが、うちの社長は米中にはよく行くがロシアにはなかなか来てくれないと愚痴をこぼしていました。つまりロシア人は日本を高く評価しているのに、日本人はロシアの実態も知らないで一方的な情報だけで判断する傾向があるように思います。また、ロシアを好きな人はロシアの良いところばかりを見て悪いところを見ようとせず、逆に嫌いな人は悪い面しか見ないというように、是々非々でロシアを客観的に観ようとする人がとても少ない、ということも感じています。

片岡:   米ロ間の感情については如何でしょうか。

隈部:   米国では、ソ連時代に移民やユダヤ人の問題でソ連に制限をかけるジャクソン=バニク修正条項(1974年)等も制定されましたし、共産主義は敵だとされてきましたので、多くのアメリカ人がソ連に対して悪いイメージを持っています。今はロシアゲートでロシアに対する見方が厳しくなっています。他方、米国との関係が「良い」とするロシア人はソ連崩壊時には80%でしたが、米国によるセルビアへの空爆、イラク侵攻、グルジア紛争等が起きると急激にアメリカとの関係は悪化し、クリミア問題が起きた時には過去最低の13%にまで低下しました。トランプ大統領が誕生すると35%に回復しましたが、彼は当初期待されたような行動ができていないことから再び米国との関係が悪いとする見方が増えています。
ロシアゲート問題等で、米ロ関係は一層悪化しています。米国は対ロ制裁を度々課していますが、米ロの貿易額は、日ロ貿易額を上回る状況です。また、米ロ関係家は悪化しており、ロシア外務省と米国国務省は非難をしますが、プーチン大統領も、トランプ大統領も直接相手を批判することはしていません。今年に入っても、制裁リストにのっている保安庁の長官等は、アメリカに行ってテロの話などもしています。水面下では、色々な動きをしていますので、出来るだけ客観的にロシアを見るには、複眼的な考察が必要と思います。

片岡: ロシアは極東開発を打ち出し、日本政府も協力するとしています。ソ連崩壊後も小規模の投資が続いていましたね。

隈部:   日本は60年代後半からいわゆるシベリア開発をやっていました。当時の財界は、日本が戦後とくに資源の乏しい中で発展していくためにはソ連との関係は不可欠と考えて、北方領土問題はあるにしても、ソ連の資源を積極的に活用しようと考えました。外務省はかなり反対しましたが、政治家も動きました。それで、一方的に資源を開発するのではなくWINWINの関係にしましょう、と。ソ連はシベリア開発をしたくても機械設備がない。だから日本側で開発に必要な機械設備のクレジットラインを作って、なおかつロジスティックがないといけないのでそれに港湾設備も含めました。そういう絵を描いて交換公文を締結したのです。普通、交換公文はODAの時に交わすものです。交換公文を締結するということは、国が認めるということです。その後は日本の設備に対する輸出信用という形で続いていて、フランス、イタリア、ドイツ等と競争してきました。しかし、ソ連崩壊が近づくとソ連はだんだん資金繰りが悪化し、債務の返済に支障が生じてきました。そしてソ連が崩壊し、新生ロシアが誕生したものの、先行きが不透明なため、日本の大企業は動けなくなりました。しかし極東では、中堅、中小、個人で、かつてソ連ビジネスをやっていた、ロシアが好きな人たちが、ハバロフスクやサハリンに投資しました。ラーメン店やホテルなどです。ところがロシア側は、日本が投資をすると利益が出てくるまでは日本側に任せておいて、事業が軌道にのると契約書の不備をついたり、登記簿の内容を勝手に変更したりして乗っ取ってしまう。90年代に進出した日本企業のほとんどが撤退に追い込まれてしまいました。日本では、極東でのビジネスは怖いというマイナスのイメージがいまだに残っています。実際、90年代の極東は治安が悪く、本当に怖かったのです。今は良くなりましたが、当時は夜出歩くのは本当に危険で、当然一人では外出しないようにしていました。また一緒にミッションで来ていた方がホテルの中で襲われ現金を盗まれるといった事件もありました。そのため、日本企業にとって、ロシア、特に極東のビジネス環境は最悪とのイメージが出来上がったかと思います。
一昨年、ロシアの公的機関である極東投資誘致輸出促進エージェンシーの総裁(当時)に呼ばれ、「日本に極東への投資の呼びかけをしているが、日本企業は極東をどうみているのか、ぜひ聞かせて欲しい」と尋ねられましたので、ソ連時代からの日本とのビジネスや問題点を時系列に添って色々お応えしました。強調したのは「極東に日本企業を呼びたければ、よほど極東の投資環境を良くしないと来ない。それに極東に限らずロシアは投資してくれと強く言うが、投資した後はなんの面倒も見ない。きちんとフォローもしてくれないので、日本から投資を誘致したのであれば、少なくとも現在ロシアに進出している合弁企業にアプローチし、彼らの抱えている問題を把握し、解決できるようにしてほしい。そして今後はクレーム処理の窓口を設けて欲しい」と述べました。しかし、今のところ十分なフォロー体制は構築されていません。
ソ連時代のシベリア開発に日本が協力したように、シベリア・極東には日本にとって大事なエネルギー資源や水産資源が多くあります。日本企業も港湾・鉄道・道路などのインフラが整備され、物流が円滑に機能するようになれば、日ロの貿易量は増加し、投資も増える可能性があると考えています。そうした意味で、ロシア側が要望してくる案件に対応するだけでなく、もっと総合的なプランを日ロ双方で描いていくことも必要だと思います。今後はこれまでMOUを締結した案件をいかに実現できるか、議論を深める必要があります。日ロ間では官民含め、様々な会議が開催されていますが、会議を終えた後は必ず総括をして次の会議が一層良いものになるようにしてほしいと思います。
2年前のソチでの日ロ首脳会議で、プーチン大統領が日本の経済協力の考え方を高く評価しました。その理由は、使用前・使用後ではありませんが、日本の技術などを用いれば、如何に現在の状況が改善するかをヴィジュアル化でき、大変分かり易かったということが言われています。先日来日されたロシア経済発展省のオレキシン大臣と会談された世耕大臣が、会談後の記者会見で、「今後はロシア国民が協力の成果を実感できるものにしたいと思っている」と意欲を示されましたように、これからもウイン・ウインを基本にした協力を進めて欲しいと思います。

片岡:   貴重なお話を有難うございました。

 

<完> (一部敬称略)

 

 

聞き手  片岡秀太郎 プラットフォーム株式会社 代表取締役

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