「我が国の歴史を振り返る」(45) 「ノモンハン事件」の背景
▼はじめに
「ノモンハン事件」に参加された旧陸軍参謀であり、戦史研究の大家でもあった本郷 健(たかし)氏が、1978年に『戦争の哲学』という436ページに及ぶ大作を出版されました。
日本でもこのような「戦争論」を唱えることができる人を輩出していたにもかかわらず、広く知れ渡ることはなく、自衛隊の教育でも一度も本郷氏の名前を聞くことはありませんでした。
詳しく触れる余裕はありませんが、本郷氏は「戦略戦術の運用は、軍事専門家以外には困難であるが、戦争指導は、戦略や戦術のように原則や法則が数知れずあるわけではないので、専門以外の人でも戦争指導者になれる」とする一方、「科学の駆使により時間及び空間を克服しつつあった第2次世界大戦以降は、軍事のみならず、政治、経済、財政、産業も一通り心得た人物でなければ戦争指導を論ずることは無理である」と指摘しています。
「ノモンハン事件」においては、のちに「スターリングラードの戦い」を指揮してドイツ軍を撃破する、ソ連軍きっての大戦略家ジューコフ将軍が指揮を取り、その戦争指導は、当然、スターリンが実施していました。
本郷氏はまた、現在の戦争は、クラウゼヴィッツがいう「戦争は政治の延長」とする切り口だけでは不十分として、「戦争は、政治以上に『思想』の対立によって生じるものが主体である」ととらえ、「戦争とは、自己の世界観に基づく政治を進展せしめんがために武力を含む一切に敵対行動を発動するを言う」と再定義しています。
日本は、当時から共産主義の「思想」そのものを脅威ととらえ、「防共」の最前線に立っていたことに比し、ルーズベルトもチャーチルも、この時点では、共産主義を脅威と考えないばかりか、(本郷氏が唱えるような)「新たな戦争がすでに始まっていたこと」を見抜く眼力はなかったのでした。
共産主義は“目的のためには手段を選ばず、人命さえ無視する”ことは歴史が証明しています。「ノモンハン事件」を単に国境紛争とだけ捉えると、終戦後のソ連の満州侵攻も、戦後の冷戦も、その延長で、現在の中国の膨張主義もその本質は見えてきません。
前にも紹介しました「ノモンハン事件」研究家らに、このような「視座」があったかどうか、今更ではありますが、疑問に思っています。
▼日ソ対立の背景―ソ連側
さて日ソ対立の背景、まず、ソ連側から見てみましょう。欧州と東アジアは地理的には遠く離れていますが、スターリンにとってはいずれの動向も気になります。スターリンは、“地球儀をみながら戦争を指導した”といわれますが、小さな地球儀上で、欧州と東アジアは“目と鼻の先の近さ”に見えたのでしょう。
当時、日露戦争やシベリア出兵の経験などから、一般にロシア人には日本人に対するコンプレックス(恐怖心)あったようですし、その逆(日本人のロシア人への侮り)もあったようです。
スターリンとて例外でなく、ドイツと日本の双方から挟撃されれば、ソ連がひとたまりもなく崩壊するという“悪夢”を常に保持していたのでした。もし、ドイツとの対決を避けられなければ、少なくとも日本との戦争は避けなければならないと考えるのは当然だったのです。
さて、「満州事変」以来、ソ連と日本は長い「国境線」を挟んで直接対峙することになります。日本は、満州国(東北3州)の地歩を固めた後に、内蒙古、外蒙古方面へ勢力拡大を図っていました。
特に、蒙古は、ソ連にとって“致命的な地政学上の利益を伴う場所”であることからよけいに神経質になります。中でも、すでにソ連の保護国となっていた外蒙古は、ソ連からすれば、“日本の侵攻に対する防波堤”の役割を担っていたのです。
その上、約4000㎞に及ぶソ満国境は、3900㎞が河川や湖沼で、特に歴史的に国境の目安とされたアムール川やその支流は、水量の影響で川の流れが変わるなど事態を複雑にしていました。
このような背景のもと、1937(昭和12)年の「カンチャンズ島事件」から、(後ほど触れます)「張鼓峰事件」、そして1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」に至るまで、「満州事変」以降約2百件の国境紛争が発生します。
その上、1936(昭和11)年に締結され、のちに「三国同盟」に発展する「日独防共協定」は、その秘密文書の中に“対ソ軍事同盟”の性格を有していましたので、スターリンをさらにいら立だせ、日ソの緊張を高めることになります。
スターリンはまた、中国情勢についても「中国国民政府の圧力がなくなれば、日本は後顧の憂いなく対ソ攻撃に踏み切る」として強く警戒していました。「西安事件」で処罰を望んだ毛沢東と激しく対立したのは、“蒋介石がいなくなると中国の対日戦線が破城する”ことを恐れたためでした。
その危惧を背景にして、(前回触れましたように)「中ソ不可侵条約」(1937年)を結び、中国に対して数千万ドルに及ぶ借款や武器を提供します。ソ連は、対独戦争の脅威にさらされている中にあって、蒋介石軍に対して飛行機297機、戦車82両、大砲425門など、英米よりもはるかに実質的な支援を行っていたのです。
▼日ソ初の本格衝突「「張鼓峰事件」
こうした中、日本軍が「支那事変」開戦以来最大の兵力をもって「漢口作戦」を実施していた時に起こったのが、日ソ間の最初の本格的な戦闘となった「張鼓峰事件」です(1937(昭和13)年7月)。
当初国境を越えて侵入したのはソ連兵でしたが、関東軍の第19師団は夜襲をもって国境線を回復します。大本営は、「支那事変」の処理への影響を考慮し、国境線回復後は、専守防衛の方針を示し、外交交渉による解決に努めます。しかし、ソ連は再び航空機の支援のもとに逆襲に転じ、日本軍は苦戦を強いられます。
結局、両軍が対峙している位置をもって停戦合意され、その後の現地交渉によって双方とも80メートルずつ離れて対峙することで決着しました。
本事件は、ソ連の圧倒的な火力の反撃にあって日本軍が一方的に撃破されたようになっていましたが、日本側が戦死約530人、負傷約910人だったのに比し、ソ連崩壊後の資料によると、ソ連側の戦死約240人、負傷約610人となっています。戦いは五分五分だったのです。
本事件によって、日本軍は、ソ連の火力徹底思想や戦法の軽易な改善などの“実戦能力”を初体験しました。
▼日ソ対立の背景―日本側
次に、日ソ対立の背景を日本側から見てみましょう。特に陸軍は、明治以来伝統的にロシアを仮想敵国の筆頭に挙げ、対ソ戦争を最も警戒していたこと、また満州国建設の目的の一つも対ソ防衛戦のための地歩(縦深)の確保があったことはすでに紹介した通りです。
昭和13年夏ごろ、ドイツから「日独防共協定」の対象をソ連だけにとどまらず、他国にまで広げて“軍事同盟”に切り替えようという強い申し出があります。
ヒトラーは、「ポーランド併合を企てた際、同盟国の英仏はだまってはいないだろう。日本の強力な海軍力をもって両国を牽制してほしい」と期待したのでした。「欧州戦争に参加するのが嫌なら、名目だけでもいいから『日独伊の三国同盟』を世界に発表しよう」と促がしたようですが、これ以降、この「参戦」条項を巡って政府内で大議論することになります。
ソ連の脅威に直面している当時の陸軍中央(主に作戦課)は、「ドイツと同盟を結ぶことで、ドイツの軍事力をもってソ連の背後から強力に牽制できる」と考えます。
またこれによって、「ソ連からの攻撃の心配なしに中国に対して全兵力を行使することが可能になり、この勢いをもって蒋介石を和平に応じさせることができる」とも考え、「泥沼の日中戦争を早急に解決するため」とこの画策に乗ります。
その背景には、「持たざる国」(日独伊)が「持てる国」(米英仏)とのアンバランスを崩して世界秩序を打ち立てるという希望を実現するため、「三国同盟は我が国の国際的地位向上につながる国家戦略」だとする考えがありました。
板垣征四郎陸軍大臣は、「職を賭しても三国同盟を成立させる」と約束します。しかし、陸軍省内にも「中国大陸でどろ沼の戦いを続け、かつ極東ソ連軍の強大化に怯えながら、その上に英仏と戦う余力があるのか、英仏の対立は対アメリカとの戦争にもつながる」と反対する意見もありましたが、完全に無視されます。そして政界の一部や外務省、それに宮廷内にも賛意を示す意見が増えていきます。
平沼首相は外交にはまったく門外漢でしたので、陸軍の弾圧に屈することが多い中、真正面から立ちふさがったのは海軍省首脳(米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長)でした。
特に山本は、「日本の海軍軍備の現状をもってしては対米英戦争に対する勝算は全くない。自動参戦などとんでもない」とし、この同盟は「ソ連への牽制という点では有効であっても、ヒトラーに引きずられ、日本は、英仏はおろかアメリカとの大戦争に巻き込まれる」と大反対します(同じ人物が日米戦争の発端となる真珠湾攻撃を強行するのですから歴史は不思議です。細部は後ほど触れましょう)。
このような中、5相会議(首相、外相、陸相、海相、蔵相)が1939(昭和14)年1月から4月までいつ果てるともなく続き、数10回を数えますが、合意に達しようとしません。そのうち、天皇が明確に「三国同盟の参戦条項に反対」の意思を表明されていることが伝わってきてきます。
実際の「三国同盟」は、それから1年後の昭和15年9月、第2次近衛内閣時の松岡洋右外相の剛腕によって締結されます。松岡は、我が国の外交史で「日本を滅ぼした外務大臣」として筆誅を加えられています。
▼高まる“反英排英”感情
政府内で、三国同盟を議論していた頃、日本人を激怒させる面倒な事件が発生ます。国際都市天津市内のイギリス租界の劇場において、日本側に立つ華北政権の中国人が反日テロ団によって暗殺されるという殺人事件が発生します。
それまでの天津イギリス租界は、反日テロ団の根拠になっているとして日本人居留民の憤激の対象になっていました。イギリスは、租界の特権を利用して抗日分子の潜入をだまって見過ごすばかりか、テロ団は租界の銀行から資金を得て抗日策動を容易にしていたのです。
本事件の後、イギリスが犯人の引き渡しと裁判にかけることを厳しく拒んだことから、殺人事件そのものよりも、居留民のみならず日本人をひとしく憤慨させ、日英関係をさらに悪化させます。歴史の歯車とはそうしたものなのでしょうが、それが日増しに“反英俳英”に拡大し、その反動のように、“三国同盟”推進の動きが活発になるのです。
ちょうどその頃、欧州では、ヒトラーとスターリンの2人の独裁者が思い切って接近し、併せて、ヒトラーはソ連と日本、スターリンは英仏とドイツと“二重取引”を始めます。しかし、このような欧州列国の微妙な“かけひき”から日本は完全に蚊帳の外におかれます。
このような経緯の中、「ノモンハン事件」の最初の小競り合いが始まる少し前、1939(昭和14)年5月7日、陸軍中央の全将校の激励を受けて、板垣陸軍大臣は“最後の頑張り”と5相会議に臨みます。
板垣陸相は「当面の重要課題は支那事変の解決であり、それを邪魔しているのはソ連とイギリスである。ドイツと協定を結ぶことによってヨーロッパにおいて両国を牽制する。そこにこの条約の意味がある」と決意を述べます。
またしても議論が繰り返されたた後、石渡荘太郎蔵相が「経済問題にかぎり英米を刺激することはもっとも避けなくてはならないと思う」と発言し、続いて米内光政海相が「アメリカはドイツを極度に憎悪している。ドイツと接近するとアメリカの対日悪化は深まる。我が国の貿易の70%は英米との貿易である。欧州の戦争に日本が参戦すると、日米間の貿易がなくなることを覚悟しなければならい」とが発言し、外相も賛同して板垣の“中央突破”は失敗します。
それでも諦めない陸軍中央は、参謀総長の上奏権を使って天皇に直訴しようと上奏文の案を起案します。しかしその日早朝、「防共協定強化には明確に反対」との天皇のご意思が侍従武官を通じて伝わります。それでも閑院宮参謀総長は天皇に会いますが、「参戦に絶対不同意」と「拒否」されてしまいます。万事休すでした。(以下次号)