「我が国の歴史を振り返る」(43) 世界に拡散した「東亜新秩序」声明
▼はじめに
新型コロナウイルスの蔓延と関係あるのかどうか詳細は不明ですが、再び朝鮮半島に緊張が走っております。
ひとまず北朝鮮は軍事行動計画を棚上げしたようです(ここまでは当初から計画していたと推測します)が、これに対して、文大統領は「南北間体制競争はすでに終わった。韓国の体制を北朝鮮に強要するつもりはない」として「大胆な和平への努力を」と北朝鮮に呼びかけました。
一方、別な演説では国民に向かって「成熟した民主主義」を強調しましたが、北朝鮮が「成熟した民主主義」を簡単に受け入れるとは到底考えられません。ましてや、ポストコロナの最大の危機として、「自由主義体制」と「中国型専制体制」の“最終決戦”の到来が叫ばれている昨今です。
これらから、改めて朝鮮半島の統一など、まだまだ先の“見果てぬ夢”という思いを持ちつつ、更なるエスカレーションに繋がらないことを祈るばかりです。
我が国とも間でもトラブルが絶えない韓国ですが、この“常軌を逸した対日政策”はどこから来るのだろうと考えていた昨年末、韓国のベストセラー『反日種族主義』の翻訳版を店頭で見つけ、購入して読む機会がありました。
そのプロローグは「韓国の嘘つき文化は国際的によく知れ渡っています」で始まりますが、著者達は、学問を職業としている研究者の“良心”に従い、あえて韓国の“世情”に竿をさし、“蛮勇”を振り絞った結果、本書が出来上がったのでした。その勇気に心より敬意を表したいと思います。
本書は、韓国社会の“嘘が善として奨励される”源は、半島に長い歴史を持つ「シャーマニズム」にぶつかるとして、善と悪を審判する絶対者(神)が存在しないシャーマニズムを信奉する集団は“民族”とは言えず、それ以下の“種族”や“部族”レベルだと指摘します。しかも、隣の日本を“永遠に仇”と捉える敵対感情を有していることから、本書を『反日種族主義』と命名したとのことです。
本書を読むと、戦後、“韓国が主張しているすべてが全くの嘘である”ということがよくわかります。細部はまだ読んでいない人のために省略しますが、①朝鮮併合時代の日本の支配、強制動員・強制労働、徴用工の請求権、②独島の帰趨、③慰安婦問題など、日韓両国の懸案事項に対する韓国の言い分は、歴史的事実に照らして“虚構”であり、“間違っている”と詳細に検証しています。
このように、私達日本人が読むと痛快極まりないことばかりなのですが、長い間、教科書などで真逆のことを教えられ、「反日種族主義」に凝り固まっている大多数の韓国人の“怒り心頭”は明白で、当時、韓国でもかなり騒然となりました。
しかし、喜んでばかりはおられません。本書は、最後に「反日種族主義がこの国を再び亡国の道に引きずり込んで行くもかも知れない」と警鐘を鳴らし、「反日種族主義の横暴に対して、韓国の政治と知性があまりにも無気力だ」と嘆いています。
その警告はけっして他人事ではありません。“韓国の亡国が我が国の生存にバイタルな影響を及ぼす”のはいつの時代も明々白々だからです。先人達は、その亡国を食い止めるため、やむを得ず、戦争という強硬手段を選択したのでした。問題は、そのような強硬手段は絶対に取り得ない“将来”です。
我が国は、地位協定によって国連軍の「後方支援」を行うことが決まっていますが、韓国が真に亡国に瀕するような場合、(あるいはそれを防止するために)、我が国は、国家としていかなる行動ができるのでしょうか。それとも、“対岸の火事”として放置するのでしょうか。あるいは、米国(国連)に懇願するだけでしょうか。
元自衛官の“性”かも知れませんが、朝鮮半島に緊張が走るたびに、「半島有事」を“表には出さずともしっかり考えておく”必要性が頭をよぎります。しかし現実は、あたかも半島危機にタイミングを合わせたような「イージス・アショア配備中止」の政策変更などをみるに、「政府の危機管理能力は大丈夫なのだろうか」と心配になってしまいます。
さらにもう1点、「反日種族主義」と同様の“性癖”が我が国にも内在していないかと言う点です。時として、日本国民であるにもかかわらず「反日」を唱える人達が散見されます。彼らの“信条”はどこから来たのか、私自身は理解できないのですが、やはり“戦前戦後の歴史の中にある”と考えるべきなのでしょう。今回の本文がそのようなことを考えるヒントになればと願っています。
▼共産主義者がいかに暗躍したか
さて、三田村武夫氏が『戦争と共産主義』の中で指摘した、戦前の共産主義者達の具体的な活動について、後々のために振り返っておきましょう。
時は前後しますが、近衛文麿は、終戦間際の昭和20年2月、上奏文を天皇に提出します。有名な「近衛上奏文」です。その概要は次の通りです。
「過去10年間、日本政治の最高責任者として軍部、官僚、右翼、左翼、多方面にわたって交友を持ってきた自分が反省して到達した結論は、軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本は今や共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することができなかったのは、自分の不明の致すところである」。
まさに、“時すでに遅し”でしたが、自分が革命主義者のロボットとして踊らされたことを告白したのでした。この“不明の致すところ”が国家の命運を狂わしたのですから、近衛個人の人生を反省するのとはわけが違うのです。
三田村氏の指摘では、共産主義者達の具体的な暗躍は次の通りです。第1には「尾崎・ゾルゲ事件」(昭和16年から17年)に代表されるように、近衛の側近としてコミンテルン本部要員のゾルゲや生粋の共産主義者の尾崎秀実が活動し、国の舵取りに決定的な発言と指導的な役割を果たしてきたことです。
第2には、「企画院事件」(昭和14年から16年)に代表されるように、革新官僚が経済統制の実験を握り、“戦時国策“の名において「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」と主張し、統制法規を乱発して、全経済機構を半身不随の動脈硬化に追い込んだことです。コミンテルンの上からの指示に従い、革新官僚が背後より操った結果といわれます。
第3には、「昭和研究会」の存在です。「昭和研究会」は、昭和11年に「新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策を推進する」ことを目的とした近衛の私的ブレーンの集まりでした。メンバーは尾崎秀実を中心とした一連のコミュニストと企画院グループの革新官僚などによって構成されていました。近衛新体制の生みの親といわれた「大政翼賛会」創設の推進力になったといわれ、その思想の理念的裏付けはマルクス主義を基底としたものでした。
そして第4には、軍部内に食い込んだ謀略活動です。「支那事変」の中途から、転向共産主義者が召集将校として採用され、大東亜共栄圏の理念に飛躍していったといわれます。三田村氏は「大東亜共栄圏の理念はコミンテルンの理念と表裏一体であり、我が国を完全なる全体主義国家に変遷せしめた」と指摘しております。
そして「政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により付焼刃的な理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に陥った時、策謀に乗せられるのは当然の帰結」と指摘しています。
さらには、名のある政治家、官僚、学者・有識者、経済人、マスコミ関係者など多数が関係していたことも判明しています。その一部は戦後、見事に“転向”して各界の要職についております。
いずれも後から判明するのですが、「支那事変」から「日米戦争」にかけて我が国が迷走した背後に、このような共産主義者達の暗躍があり、それらの活動を抜きに真実の歴史の解明は不可能との認識のもと、あえて取り上げてみました。
当時、これらの暗躍を近衛首相は見抜けないまま、「蒋介石を対手にせず」とか「東亜新秩序」の声明発表になり、やがては、いわゆる“南進論”に発展していきます。この“一連の動き”を引き続き振り返ってみましょう。
▼「東亜新秩序」声明とその影響
1938(昭和13)年11月、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表したことは述べました。この声明は、日中戦争の目的をそれまでの「中国側の排日行為に対する自衛行動」としてきたことから、「日本、満州、中国による東亜新秩序の建設にある」と新たな目的を設定したことを意味し、中国の領土保全や門戸開放を定めたワシントン体制下の「9ケ国条約」を事実上否定するものでした。
その3年前の1935年、ナチス・ドイツは、「ヴェルサイユ条約」を破棄して再軍備を宣言します。翌36年には、西ヨーロッパの安全保障を取り決めた「ロカルノ条約」を破棄してラインラントに進駐します。同じ頃、イタリアもエチオピアを併合するなど、ヨーロッパの緊張が激化してきます。
このような欧州情勢から、「英・米など列強諸国は東アジアに本格的に介入できないだろう」と判断した結果、「東亜新秩序」声明に至ったといわれます。しかも、本声明の基本的な考え方は、ヴェルサイユ体制打破をかかげるナチス・ドイツの「ヨーロッパ新秩序」のスローガンを習ったものでした。
しかし、予想に反して、この「東亜新秩序」声明は、重慶国民政府はもちろん、米・英両国から猛反発を受けます。アメリカは、4000万ドルの対中借款を決定し、イギリスも1000万ポンドの中国通貨安定基金を設定、500万ポンド(2300万ドル)の政府保証を与えます。つまり米・英ともに、本声明を機に財政的な中国支援に踏み出すことになります。
ソ連もまた、1937年8月、「中ソ不可侵条約」を締結し、約1億ドルの借款を中国に与え、各種兵器や軍需物資を供給する一方、翌39年には1億5千万ドルの対中援助契約を結びます。
一方、「東亜新秩序」声明直前の1938年8月、ドイツから、ソ連のみならず英・仏も対象とする「日独伊3国同盟」の提示があります。ドイツは、従来の親中国政策を軌道修正して、満州国の承認、中国への武器・軍需品の輸出禁止など、対日提携強化に方針を転換したのです。
ドイツは、対日接近によって対ソ連に備えるとともに、アジアに広大な植民地と勢力圏を持つイギリスを背後から牽制する役割を日本に期待したのです。ちなみに、イタリアも1937年に満州国を承認し、日独伊協定に加わるとともに国際連盟を脱退します。
これに対して、我が国(特に陸軍)は、ドイツとは“ソ連のみを対象とした”同盟を結び、イタリアとは“イギリスを牽制するために秘密協定”に留めると考えていましたが、ドイツは、あくまで英・仏・ソを対象にした軍事同盟を要望します。陸軍は対ソ牽制のために同盟そのものが不成立になることを恐れ、結局ドイツ案を受け入れます。
しかし、外務省や海軍などは英・仏を対象とする同盟に強く反対して、翌39年1月、この問題の閣内対立によって近衛内閣は総辞職してしまいます。
後継の平沼騏一郎内閣も「日本が同盟に躊躇するなら、ドイツはソ連と不可侵条約を結ぶ」と警告されます。こうして、同年5月、日独伊の軍事同盟が調印されますが、依然として外務省や海軍の同意が得られず、閣議は紛叫します。
冒頭に述べましたように、「東亜新秩序」の発案者が、各国の思惑が交錯してこのような展開になることを企図していたとすれば、ものすごい謀略だと脱帽しますが、このような中、「ノモンハン事件」が発生します。続きは次号で。