「我が国の歴史を振り返る」(17) 明治時代以降の「国民精神」を育てたもの
▼はじめに(長州藩の藩庁・萩市を訪問)
いよいよ次回から、「日清戦争」「日露戦争」、そして大正時代を経て昭和に至るまで、我が国が巻き込まれた「戦争」の歴史を中心に振り返ることになります。その前に、時代は少し前後しますが、今回は「明治維新」や「国家の大改造」を成し遂げた、つまり、明治時代以降の「国民精神」、それに我が国の統治に多大な影響を及ぼすこととなった「統帥権の独立」などをまとめて整理しておきたいと考えます。
すでに紹介しましたように、「明治維新」成功の陰には、様々な要因が存在したことは疑いありませんが、その途上で歴史に名を刻み、命を捧げた(「大河ドラマ」に出てくるような)志士たちに留まらず、名もなき無数の若者たちの“命をかけた行動”がその原動力となったことも事実でした。黒船以来の騒動の中、この若者たちにいったいだれが「国を守る気概」のような精神を覚醒させたのでしょうか。
そのヒントを得る目的もあって、昨年2度にわたり、薩摩藩と共に「明治維新」を成し遂げた長州藩の藩庁が所在した山口県萩市を訪れる機会がありました。もともと長州藩は、最盛期には中国地方10カ国、北部九州の一部も支配する、実高200万石超になろうとする大国でしたが、「関が原の戦い」で西軍に加担したことから、周防・長門2か国のみ、約4分の1の領国に減封されました。
そして、新しい藩庁として防府、山口、萩を伺い出たところ、三方を山に囲まれ、日本海に面した、ひなびた土地の萩に築城することを命じられました。
萩に移封された長州藩は、以来、“倒幕”を藩の「国是」とし、新年拝賀の儀では、家老が「今年の倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったといわれます。萩市は、幸いにも今日まで大きな災害もなく、日本海側という地理的位置のせいか開発が遅れたこともあって、橋本川と松本川に囲まれた三角洲の城下町は、かつての風情をほぼ残したままになっています。
中でも、幕末から「明治維新」の牽引車となった吉田松陰、久坂玄端、高杉晋作、桂小五郎などに加え、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などの生家(または生家跡地)、そして、有名な「松蔭神社」「松下村塾」などが狭い市内にひしめき合っており、実際に萩市に立つと、当時の長州人の“想い”や“誓い”が彷彿してきて胸が躍ります。
▼若者の心に火をつけた吉田松陰
江戸時代には様々な学問が発達し、多士済々な人材が全国各地に輩出されましたが、幕末から明治にかけた国防思想の「源流」となり、門下生に留まらず多くの若者たちの心に火をつけたのは、長州人の吉田松陰だったと考えます。
日本各地をまわって勉強し、法を犯し外国に行って勉強しようとした松陰には、どのような人でも心を動かされ、松陰の元に集まる若者が絶えず、「松下村塾」は約90人の大所帯まで膨れ上がったようです。
松陰は、「誇りある人間を育てる教育」を目指し、「学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり」として学問の目的を「人間としていかに生きるべきか」にあると熟生に強調しました。
実際に「松下村塾」を訪れると、狭く粗末な塾の一角で、情勢や国の将来などについて松陰を中心に熱く論じ合う塾生たちの姿が目に目えるようでした。
そして、『留魂録』(1859年執筆)冒頭の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」は、大義のために命を捧げる精神を塾生のみならず若者たちの間に浸透したのでした。
松陰はまた、塾生一人ひとりについて詳細な記録を残しております。当然ながら、久坂玄端、高杉晋作、山県有朋などの才能や資質はべた褒めですが、前回紹介しました伊藤博文(当時は「利助」と呼称)については「才劣り学稚(おさな)きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)る之を愛す。」(原文のまま)とあります。才能も劣り、学問も浅く、華もなかったのですが、なぜか伊藤はとても松陰に愛されたのでした。松蔭30歳、伊藤17歳の時です。
そのような伊藤は、やがて憲法を草案し、総理大臣になり、明治天皇に最も信頼される臣下になるまで“成長”したのでした(思わず、涙が出ます)。
▼「独立自尊の精神」を育てた福沢諭吉
明治時代を迎え、怒濤のごとく押し寄せた文明開化の波に翻弄されていた封建的な日本人の体質を「近代文明人」に生まれ変わらせるための新しい“価値観”を示したのが、有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる福沢諭吉の『学問のすすめ』でした。
福沢は、西洋諸国と伍して生きる国民となるためには、国民一人ひとりが「独立自尊の精神」を保持することが急務であるとして、「文明国家の礎は個人主義が基本」であること、そしてその手段こそ「学問」であると説いたのでした。
その初編が早くも明治5年に発刊されたのも驚きですが、初編だけでも20万部、全17編合計で340万部と、当時、最大のベストセラーとなりました。明治初期の人口は約3500万人でしたので、国民の10人に1人は『学問のすすめ』を読んだことになります。また『学問のすすめ』は外国でも翻訳され、世界の名著にもなりました。今、改めて本書を紐解きますと、その内容(神髄)は全く色あせていないことがわかります。
福沢は、晩年に『福翁自伝』をまとめ、自らの半生を振り返っていますが、米国に2度、欧州に1度渡った経験から、当時の米国や欧州諸国が福沢の眼にどのように映ったかなどについても詳細に記述しています。
特に「黒船来航から、わずか7年、航海術を伝習し始めてから5年にして、一切外国人の助力を得ないで、太平洋を横断しようと決意した勇気と技量は、日本国の名誉として世界に誇るべき事実である。今の朝鮮人、シナ人、東洋全体を見渡したところでこれはできない。ロシアも無理だろう」旨の記述があります。
福沢のこの認識、つまり「洋才」を短期間に習得できる日本人の資質こそ、当時、我が国が欧州列国の植民地を回避し、国家の大改造もできた最大の要因だったと考えます。しかし、“一歩先んじた”ことが周辺国との争いの原因にもなります。歴史とは皮肉なものです。
▼「統帥権の独立」
「徴兵制」(1873(明治6)年公布)によって健軍された「兵制」についても触れておきましょう。
明治初期の軍の「統帥機構」は、“天皇が自ら採決する”「天皇親裁」ではなく、太政官政府直轄でした。それが“太政官から分離独立”したのは「参謀本部条例」(1878(明治11)年)でした。そして、1889(明治22)年に公布された「大日本帝国憲法」第11条の有名な「天皇は陸海軍を統帥す」によって“天皇直轄”として不動のものとなり、「統帥権の独立」が決定します。
ここで言う「統帥権」とは、「軍隊の作戦用兵を決定する最高指揮権」のことで、戦後は「統帥権」と言わず、「最高の指揮監督権」という名称で、自衛隊法第7条によって内閣総理大臣が有しています。
「統帥権の独立」の本来の狙いは、明治11年に発生した「竹橋騒動」(処遇改善等を狙いに近衛兵が暴徒化した事件)のように、“軍の政治関与を防止する”ことにありました。「竹橋騒動」の後、当時の山県有朋陸軍卿は「軍人訓戒」を公布し、軍人の政治問題に関する意見の公表も禁止しました。
憲法は、「行政権」もあくまで国務大臣の輔弼(助言や進言)によって「天皇が自らおこなう」という原則に立ち、第55条に国務大臣の輔弼責任を明記していますが、軍の「統帥権」については、これら国務大臣の輔弼の範囲内にあるかどうかは曖昧でした。
さらに驚くなかれ、「大日本帝国憲法」には「内閣」そのものの規定がありません。前回紹介しましたように、当時の内閣制度は、憲法が公布される4年前の明治18年に「太政官達第69号」により制定されたものでした。「内閣」は、国務大臣が輔弼するための協議機関との地位を有するのみで、内閣総理大臣も天皇を補弼する点においては他の国務大臣と同格であり、国務大臣の任免権もありませんでした。
その点では、日本国憲法第65条に「行政権は内閣に属する」と明記され、内閣総理大臣による国務大臣の任免権も規定されている現在の内閣とは性格がかなり違います。歴史を振り返る時、ややもすると現在の判断(価値)基準で“史実”を分析・評価しがちですが、戦前は現在と真逆、“軍隊は憲法に明記されていたが、内閣は明記されていなかった”という事実は書き留めておきたいと思います。
▼メッケル少佐を招聘(しょうへい)
さて、明治初期は、徳川幕府時代からの縁で、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式と「兵制」を統一していました。しかし、「普仏戦争」の観戦武官としてプロシア軍側で従軍した経験を有する大山巌が、優秀なスタッフ14人を引き連れ再び1年間の欧州列強を視察した結果、1885(明治18)年、陸軍の諸制度をフランス式からドイツ式に改めたのです。
そして、モルトケ元帥(「普仏戦争」時の参謀総長、電撃作戦によってプロシアの勝利を導いた)の秘蔵っ子メッケル参謀少佐を招聘、助言を得てそれまでの「鎮台」を改編し、機動性の高い「師団」に改編しました。
このメッケルが教えた兵術思想は、“寡をもって衆を制す”(少人数で大勢に勝利する)、つまり「弱者の戦法」と言われ、経済力の貧困な我が国の国情にマッチし、良くも悪くも日本陸軍の最適な兵術として定着して多大な影響を与えることになります。“ビギナーズ・ラック”と言うべきかも知れませんが、その最初の成功例が、「日清戦争」そして「日露戦争」の勝利でした。次回以降それらを取り上げてみましょう。(次号に続く)