医療安全調査委員会(厚労省案)についての厚労省医政局での意見陳述
医療安全調査委員会をめぐって意見の対立が続いている。厚労省案は、罰則で網羅的報告を強制し、行政の下に置かれた組織が医療の是非を裁定することを基本とした。多くの勤務医は、医療を国家統制の下に置くことになり、危険だとして反対した。一方、一部の大手メディアは、行政が医療の正しさを決めることの是非について議論することなく、特定患者団体の賛成意見を繰り返し報道している。
メディアも、報道によって、様々な個人や、法人に対し、大きな損害を及ぼしてきた。病院の医療事故への対応は1999年以後、大きく改善された。医療に比べて、報道被害へのメディアの対応が改善されたように見えない。メディア自身、行政に統制されることを覚悟しているのであろうか。あるいは、メディアは特別に扱われるべきだと思っているのであろうか。
報道被害があった可能性がある事例すべての報告を罰則付きで強制し、行政の下部機関がこれを調査し、その調査報告書を使用して、記者を行政処分するとどうなるか。間違いなく、報道は死んでしまう。
足立政務官から医政局に、厚労省案ついて広く意見を聴くよう、指示が出され、2010年3月30日、厚労省医政局で意見を述べる機会を得た。医療安全調査委員会については、主として、井上清成弁護士、梅村聡参議院議員と筆者が意見を述べた。
以下、筆者が厚労省に提出した文書を多少手直しして提示する。
《厚労省への意見》
【医療安全調査委員会(厚労省案)】
1 特徴
医療事故で死亡した可能性のある事例を、強制力(罰則による威嚇)をもって行政に網羅なく報告させ、評価し、評価を権威づける。医療従事者と患者・家族の間すなわち私人間に生じた出来事に行政が関与する。犯罪への検察の関与に似ている。調査結果を利用して行政処分を行い、医療を徹底管理する。
2 前提
「行政権力は、日々更新されている医学的合理性と大量の情報を活用するための行動原理と能力を有している。行政の活動が常に国民のためになる。」
このような前提を持つことに問題はないか。
参考1 政府への信頼は専制の親
トーマス・ジェファーソン 1776年 法律学全集3 『憲法』90ページ
「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。」(ウィキペディア「自由主義」からの孫引きで原典未確認)
3 医療安全調査委員会に対する懸念
1)医師と患者の軋轢を高める。
処分を前提に行政が強制調査をすれば、処分をさせようという強い意欲を誘発する。一方で、処分から逃れようとする努力が生まれる。これが軋轢を高める。
2)報告書が民事訴訟を誘発する。
患者側弁護士が制度の創設に動いているが、少なくとも、この制度は彼らの経済的利益を大きくする。表面的な理由以外の状況を考慮する必要がある。
3)医療システムの内部に法的考え方が入り込む。
厚労省が医療における正しさを決める。結果として医療を壊す。
権威づけされた判断は前例として踏襲される。前例の集積が、医療をがんじがらめにして多様性と未来を奪う。
医学における正しさは研究の対象と方法に依存している。仮説的であり、暫定的である。この故に議論や研究が続く。新たな知見が加わり、進歩がある。医学・医療システムは正しさを世界横断的に日々更新している。政府機関が宗教裁判のように権威で裁定してしまうと、判断が固定化され、学問の進歩を損ねる。規範に基づいた権威による裁定は、医学-医療になじまない。医療システムに有害なので医療の外で行なうべきである。
4)行政と医療機関や医療従事者との軋轢が高まる。
医療が行政と争うことになれば、行政は立ち行かなくなる。強権でこれを乗り越えようとすると、医療と行政の双方を破壊する。最近の医系技官の大量退職は、その職務に原理的な矛盾があったために生じたのではないか。
科学に任せるべきところでは、行政は謙虚に道を譲るべきである。例えば医薬品、医療機器の審査を行っているPMDAでは、行政官でも、無知は無知としてそれなりの地位に留めるべきである。
5)行政の問題
第二次大戦中、日本を含むいくつかの国で、医学・医療が国家権力による人権侵害の手段になった。日本のハンセン病患者生涯隔離政策は、一部の勇気ある医師や国際学会の反対にもかかわらず、科学的根拠を失った後も、長期間にわたり継続された。
新型インフルエンザ騒動では、行政の問題が露わになった。まず、専門家が科学的に不可能としていた水際作戦を規範化した。ガウンテクニックの常識に反して、同じ防護服のまま1日中、多くの飛行機内を歩き回った。感染を拡大させた可能性すらある。水際作戦は科学と無縁のアリバイ作りだった。インフルエンザの防御はどうでもよかったのかもしれない。
他にも、意味のない停留措置による人権侵害、PCR検査の制限による国内発生発見の阻害、行政発の風評被害による莫大な経済的損失、実行不可能な事務連絡の連発による医療現場の混乱、感染した患者が押しかける医療機関での高齢者や小児へのワクチン接種、ワクチンの大容量バイアルと科学的裏付けのない接種優先順位の強制による複合的混乱など、行政がいかに科学を苦手とするか、また、いかに有害になりうるかを示した。
参考2 行政的中央集権の弊害
トクビルは中央集権を政治的中央集権と行政的中央集権に分類し、前者は評価したが、後者については疑問を投げかけている。行政的中央集権の問題は、多様性と変化を受け入れられないことにある。トクビルは強調していないが、科学的な問題を扱うことが極めて苦手である。
アレクシス・ド・トクビル『アメリカの民主政治』
「政府は、共同体一人ひとりのメンバーを強力な権力でつぎつぎと押さえ込み、都合よく人々の人格を変質させたあと、その超越的な権力を社会全体に伸ばしてくる。この国家権力は細かく複雑な規制のネットワークと、些細な事柄や征服などによって社会の表層を覆った。そのために、最も個性的な考え方や最もエネルギッシュな人格を持った者たちが、人々を感銘させ群集の中から立ち上がり、社会に強い影響を与えることができなくなった。 人間の意志そのものを破壊してしまうことはできないが、それを弱めて、捻じ曲げて、誘導することはできるのだ。国家権力によって人々は直接その行動を強制されることはないが、たえず行動を制限されている。こうした政府の権力が、人間そのものを破壊してしまうことはないが、その存在を妨げるのだ。専制政治にまではならないが、人々を締め付け、その気力を弱らせ、希望を打ち砕き、消沈させ、麻痺させる。そして最後には、国民の一人ひとりは、臆病でただ勤勉なだけの動物たちの集まりにすぎなくなり、政府がそれを羊飼いとして管理するようになる。」(ウィキペディア「自由主義」からの孫引き 講談社学術文庫『アメリカの民主政治 下』560ページに相当)
【対案の原則】
1 病院内での事故の科学的調査
院内事故調査委員会では、様々な医療機関で二次的紛争が生じている。最適な調査方法は病院の事情によって異なる。方法を無理に統一させるべきでない。多様性と変化を保障することが調査の進歩の前提条件である。行政とは厳密に隔離する。
2 無過失補償制度の導入
過失の有無を明確にせずに、定められた基準に従って補償する。補償すべきものかどうかの判断は、事実が認識されていれば、過失の判定なしに、比較的容易に決められるような体系にする。
産科医療補償制度は、個々の事例で調査が行われる点において、無過失補償制度とは言い難い。安全のための議論は匿名化しないと、結果として安全対策のコストを高めて、形骸化させる。これが医療従事者と患者・家族の対立を高める。
3 当事者同士と仲介者による患者理解支援
現場の多様な対応を保障する。このため、行政的中央集権とは厳格に隔離する。
4 医療裁判に医療の保守本流が情報を積極的に提供
どちらか一方が聞く耳を持たないとなれば、裁判でしか扱えない。医療を中心で担っている医師が、積極的に判断のための材料を提供する。
5 地域ごとの事故の科学的調査制度
地域の専門家が、院内事故調査委員会による患者理解支援活動を援助する。行政的中央集権とは厳密に隔離する。紛争を扱うための権限と制度が持てないことをきちんと踏まえる。調査自体が紛争を起こす可能性があるので、無過失補償を先行、あるいは、同時に発足させる。
地域の専門家が援助を開始する条件を狭めることが重要。そうしないと実際に運用できないのではないか。院内の調査で大半を留め、大きな紛争が発生しているものについては、裁判に回す。
参考3 井上清成弁護士の意見
現在、医療とは「診療前の説明‐診療行為‐診療後の説明」の一連のプロセスと受け止められている。井上清成弁護士は医療事故の調査をこの一連のプロセスの中のものと位置付け、当事者主義で扱うべきものとしている。厚労省案は、私人間の営みに行政が大きな職権で関与するもの(職権主義)であると苦言を呈した。
さらに、「医療安全支援センター」は、外部や上部から原因究明・再発防止をするのではなく、当事者主義の補充として助力するものと規定した。井上弁護士の案は、医療安全支援センターと院内事故調査委員会の関係を明確にした。
2010年5月24日 MRIC by 医療ガバナンス学会