10次産業化?で秋田・齋藤さんが見事に農業経営成功、カギは差別化戦略
ビジネスチャンスは、常に、いろいろな場にあり、状況をしっかりと見据えてチャンスと見たら機敏に行動に移すかどうかで、すべてが決まってくる。三菱商事がかなり以前に「時はカネなり」というタイトルの本を出し、総合商社にとってのビジネスチャンスは時差を活かすことだ、とアピールして話題になったのをご記憶だろうか。ところが、今やインターネットの時代に、その時差は重要ファクターだが、むしろ時差を越えて、瞬時に対応するスピードがグローバルの時代には決め手となる。難しい時代になってきた。
さて今回は、いま申し上げた経営のスピード判断とは違った差別化戦略によってビジネスチャンスを活用し、秋田県の農業現場で経営成功した興味深い事例をレポートしよう。人口減少や積雪寒冷地といった地域が抱えるハンディキャップを克服するために付加価値化戦略を企業経営に積極的に取り入れ、農業を見事に成長産業化させた事例だ。実に頼もしい。秋田県由利本荘市の農事組合法人を株式会社化して経営展開する秋田ニューバイオファームがそれだが、優れものの創業リーダー、齋藤作圓さんの力によるところが大きい。
東京オリンピック時の出稼ぎ現場でのショックがヒント、他産地にない強みづくり
結論から先に申し上げよう。斎藤さんの差別化戦略は、他地域にないユニークなものを見つけ出し付加価値をつけて生産販売すれば勝てる、ということ、要は、他産地にない強みづくりが決め手になることを自身の経験で体得し、経営に取り入れた点だ。
興味深いのは1964年の東京オリンピックのころ、斎藤さんが出稼ぎで東京汐留の旧国鉄の駅から秋田産農産物を築地などの卸売市場に運ぶ貨物輸送の仕事にかかわった際の体験がきっかけだ。斎藤さんによると、日本全国から築地卸売市場に集荷される膨大な量の農産物を見て、驚きが始まった。「ベスト品質だと思い込んでいた秋田産をはるかに上回る他産地のすごい農産物を目の当たりにして井の中の蛙だったと反省した」というのだ。
そこで、斎藤さんは他産地の優れものとの競争に勝つには端境期を狙って出荷する、つまり出荷時期を早めるか、あるいは逆に時期を大きくずらして、品薄時に高値を狙う時差を活かした差別化、もう1つは農産物に関して独自の付加価値商品をつくり出し、他産地にないユニークさ、味の良さなどを強みにする差別化のいずれかだ、と考えたという。
1次+2次+3次の6次産業化に観光農園加えバリューチェーン拡大して10次化
斎藤さんはその後、自身で経営する秋田ニューバイオファームに付加価値化の経営を導入した。これがユニーク経営だった。具体的には、現代日本人が健康や香りのよさで強い関心を持つハーブ植物を多種多様にそろえ、美しい鳥海山を背景に、日本国内でも指折りと自慢できる観光農園にした。自然の豊かさを満喫するため、秋田に足を運ぼうという動機づくりのアピールだ。それを軸に他産地にない農産物の生産、加工も行い、それらを観光農園の直営店で販売するだけでなく、東京にも進出し「秋田のうまいたべもの」を売り物にするレストランで秋田の農産加工品も営業販売を行うビジネスモデルだ。
私のジャーナリスト感覚でいくと、斎藤さんのビジネスモデルは、農業の成功モデルと言われる6次産業化を越える10次産業化だ、と言っていい。要は、6次産業化が川上の第1次産業の農業生産から、農産物を加工する第2次産業の川中、販売を行う第3次産業の川下につなげ1次、2次、3次を足しても掛けても6次となるという産業化だが、これに観光農園という第4次部分を加えたのが、新モデルの10次産業化だ。
齋藤さん「付加価値産業化は農業に重要」、多種多様ハーブで指折りの観光農園
何やら言葉の遊びのように聞こえるが、経営用語でいうバリューチェーン化を農業の現場でも実践したものだ。チェーン化を観光農業にまで拡げ、4次化を加えて10次産業化にしたビジネスモデルは興味深い。これまでの農業者に欠けていた発想だ。農業を成長産業にもっていくには、ここまでの戦略的な発想が必要だ、と私自身も思う。
斎藤さんは「付加価値産業化が農業にとって重要ポイントです。第1次段階で生産した農産物を加工して第2次段階で付加価値を、さらに第3次の外食店などの現場で味に磨きをかければ高値でも十分に売れる。これが既存の発想ですが、私はハーブをセールスポイントにした観光農園を加え、多くの人たちが半日、大自然を満喫できるよう工夫する発想が必要と思ったのです」と語る。出稼ぎ時代に得た差別化戦略の発想が生きている。
観光農園自体は、すでに全国各地にいくつかの先進モデル事例があるが、秋田ニューバイオファームの場合、現代日本人が好むハーブに関してケタ外れの多種多様の品種をそろえ、それを経営の強みにすること、しかも観光バスなどで1、2時間滞在といった形ではなく消費者や観光客の人たちに観光農園に来てもらって半日、ゆっくりと自然満喫でリラックスしたくつろぎ、癒しの時間を過ごしてもらうだけでなく、その場でイベントに参加、ハーブの温泉にも入ったりして非日常の時間を過ごしてもらうこと、そしてそれらの観光客に鮮度のいい農産物や加工品を味わってもらう発想だ。着眼点がいい。
積雪寒冷地ハンディ克服し出稼ぎ労働に終止符打つため売れる農産加工品に努力
斎藤さんに会って、いろいろ話を聞いていると、その差別化戦略は意外に奥が深い。話はこうだ。付加価値のある差別化商品づくりを意識したのは、1991年につくった農産加工事業部がはしりだ。当時、秋田県内は、冬場が積雪寒冷地で、どこも屋外では仕事にならず出稼ぎに行くことが常態化していた。斎藤さんは、屋内で農産物加工に工夫を凝らし、売れる農産物加工品づくりに取り組めば、出稼ぎにおさらばできる、と考えた。その1つが「元祖秋田屋」ブランドのキリタンポだった、という。
キリタンポ自体は、秋田県内でコメ加工品として古くからあったが、当時、秋田県内の加工品業者は、県内どまり商品と考え、東京などに積極的な販路開拓していなかった。斎藤さんは敢えて秋田をイメージするブランド名にして、東京で初めて売り出したら当たったのだ。内向きの秋田県人のベクトルを外向きに変えたところが興味深い。
秋田県内にとどまっていたキリタンポに付加価値つけ、首都圏での販売展開が奏功
斎藤さんによると、出稼ぎ時代に培った東京の卸売市場人脈ルートに働きかけたら、東京昭島にある卸売会社の社長が「スーパーマーケットで試験販売してみよう」と主だったスーパーに卸してくれた。当時、キリタンポの珍しさもあって初日だけでコメ10俵分に相当する量が売れ、それをきっかけにスーパーでの取引に弾みがついた。これに手ごたえを感じて一段と付加価値づくりに取り組んだ。
斎藤さんはコメ生産も手掛けているが、安全・安心ブランドを強くアピールするため、秋田の現場で、有機質肥料を使って合鴨農法のコメづくりに取り組んだ。おかげでJAS(日本農林規格)法の有機加工施設の認定を得たのをきっかけに、キリタンポもそのコメでつくって売り出したら、信頼度が高まって売れた。極め付けは、秋田産の比内地鶏のスープなどをキリタンポと一緒にパッケージにして鍋物セットで売ったら、これまた売れた。要は、組み合わせ次第で付加価値がつきモノが売れることがわかった、というのだ。
異業種分野への進出にはライバル研究を怠らず、そして「県外貨」をかせぐ発想
斎藤さんは「付加価値産業化は農業の戦略的経営には必須だと実感しました。私たちの場合、地域資源を使って農業生産しており地域を大事にするのは当然ですが、地元だけの商売に限界があるため、農産加工品に付加価値をつけ、首都圏消費市場をターゲットに攻めの戦略で『県外貨』をかせぐことを意識しました」と述べる。差別化戦略に磨きをかけるため、付加価値化できる部分が何かを探し出すことに必死になると同時に、異業種研究も積極的だ。それらの結果、今や年商10億円企業に成長しているのは立派だ。
こういった農業の戦略的経営の発想は、どこで培われたのかなと思って、いろいろ聞いてみたら、面白いことがわかった。齋藤さんは、農業企業の経営者の顔以外に、秋田県農協青年部委員長、また西目町議や統合後の由利本荘市議など政治家の時代もあったのだ。
齋藤さんによると、農協青年部時代は改革派で、当時から農協改革に強い問題意識を持ち、中でも農業経営の法人化ニーズが高まる時代に農協が農業法人化に背を向けるのはおかしいと反発した。そのこだわりもあって、斎藤さんはその後、1994年に秋田県農業法人協会を率先してつくり初代会長に就いた。さらに全国農業法人協会にもかかわった。
いずれも齋藤さんの心意気を示すものだが、斎藤さんに言わせると、個人商店のような自作農主体の農業に甘んじていてはダメだし、また農協も本来業務の営農指導や経営指導に力を注がず、もうけ主義の金融や共済事業に終始していてはダメだ、という。
バブル崩壊時は売上高ダウンでピンチ、株式会社化で外部資金導入し経営変える
また、市町村合併で統合になった由利本荘市の市議を含めて6期19年間、企業経営のかたわら地方政治にかかわった。農業現場の課題をアピールするため、たとえば農業の技術革新に財政支援を行う市農業条例を法制化したりした。ただ、高齢化が進み農業現場に担い手が不足する現実をみると、斎藤さんは、地方政治議員の活動よりも農業法人化ネットワークづくりがライフワークと考え、活動をしぼることにした、という。
とはいえ、斎藤さんにとって経営が順風だったわけでない。「実は、年商が4億円まで伸びたころに突然のバブル崩壊で売上高が一挙に1億円ダウンし、私も大慌てでした。資金繰りに窮する状況でした。いろいろ考えた結果、農事組合法人だった秋田ニューバイオファームを株式会社化することにし、外部資金の導入、端的には地域の人たちから一口5万円で出資を仰ごうと考えたのです。バブル崩壊で地域社会もダウンしている時だったにもかかわらず資金支援があったのは、農産加工など地域を活性化する事業活動が評価された結果で、活動の取り組みは間違っていなかったと思いました」と語る。
戦略的思考で経営ビジネスモデルしっかりしていれば、農業は成長産業化する証明
斎藤さんは70歳代に入った今、秋田ニューバイオファームの経営に関してはいち早く世代交代を図って後輩に道を譲っている。「私たちの会社で掲げた経営理念は、農業生産や農業観光を通じて地域の活性化、健康産業として食文化を育むなどで、それらを着実に実践してきました。そこで私は新たに、安全や安心に裏打ちされた健康社会づくり、心の文化の醸成などが重要なテーマになると考え、ハーブワールドを中心にいろいろなプロジェクトに取り組むことにしました」と語っている。
面白いもので、多種多様なハーブを育成し日本国内で指折りの観光農園化したビジネスモデルが評判を生み、斎藤さんは茨城県から委嘱を受け、ハーブワールドでの癒しや健康づくりの里のプロジェクトに取り組んでいる。年齢を感じさせない行動力が素晴らしい。
私はこれまでに、日本政策金融公庫の農業オピニオンリーダー向け雑誌「AFCフォーラム」の企画がらみで日本全国の改革意欲のある農業者に会って取材する機会が多いが、今回の斎藤さんは、時代の先を見据えて、農業の持つ強みをうまく戦略的に経営に活かして農業を成長産業にしていこう、という気概を感じさせる1人だ。こういった人たちがどんどん輩出すれば、日本農業は間違いなく成長産業になる、と断言できる。