藤田一照 禅僧、曹洞宗国際センター所長
片岡: 今月のインタビューは藤田一照さんです。本日は仏教についてお伺いしたいと思います。宜しくお願い致します。
藤田: 仏教は、もともと出世間(しゅっせけん)の教えとして始まったものですから、世間的価値観と対峙しています。だからこそ、伝統的には出家して僧侶となり、世間とは違うパラダイム、つまり、世間の人たちが大事にする「生産(仕事)」と「生殖(妻帯)」を戒律という形で放棄した生活をします。インドでは、伝統的にそういう生活形態を仏教の表現として採用しました。一方、それが中国に伝わってくると、中国の民族的価値観である儒教や道教と共存していくために、仏教の形も変わらざるを得ませんでした。勿論、日本に入るときにもそういうことが起きました。それでも基本的には、仏教には出世間というスタンスがあります。
一方、今は「エンゲイジド・ブディズム」といって、仏教の立場から環境問題や社会的正義といったアクチュアルな諸問題にかかわっていこうという大きな流れもあります。例えば、養護施設等の社会福祉的施設を開設したり、お寺に戴いたお供え物を集めて必要な場所に寄付したり、或いは僧侶が大学で専門的トレーニングを受けて「臨床宗教師」として震災の被災地に援助に行ったり、といったことを熱心にしている僧侶たちがいます。医者や看護師にも、またカウンセラーにもカバーできないスピリチュアルな領域で僧侶が求められているという事情もあります。勿論、僧侶が社会福祉的な活動をすることはけっこうなことですが、そういうことは僧侶でなくてもすることができます。やはり、僧侶である以上、社会に働きかけるということにもやはり「教化(きょうけ)」、つまり仏教を伝えるということが伴ってないといけないと思います。元々、大乗仏教では、「上求菩提 下化衆生」、つまり上に向かっては悟りを求め(智慧)、下に向かっては衆生に教えを広め救っていく(慈悲)、この2つの方向が同時に成り立っていなければならず、どちらにも偏ってはいけないと言われています。釈迦自身も、悟りの後には法を説いて慈悲の実践に取り組んでいます。抜苦与楽、苦を抜き楽を与えるというのが慈悲行です。
さて、仏教では、世間をこちら側の岸という意味で「此岸(しがん)」とよび、煩悩のない涅槃の世界を向こう岸、「彼岸(ひがん)」と呼びます。その二つの岸の間には広い川が流れています。釈迦はわれわれに此岸から彼岸に渡るようにと説きます。その川を渡るための筏(教えと実践)があり、励ましてくれる人や渡り方を教えてくれる人(善知識)もいるのですが、基本的には自分で漕がなければなりません。仏教はセルフヘルプ(自助)なのです。
此岸では、クルミのような殻で閉じた「我(エゴ)」がバラバラに存在していて、個々のエゴが好きなものは手元に近づけて愛着し、嫌なものはできるだけ遠ざけようとしています。そこは取捨憎愛の世界で、必然的に喜んだり、落ち込んだりといったアップ・ダウンの動揺が激しく、皆その中で、なんとかうまくやっていこうと苦心惨憺しています。そのような世界はそういう世界を現出させるような心が造り出しているのですが、仏教では、そのような心(小心、妄心、凡心)とは別なもう一つの心(大心、真心、仏心)があると言います。そして意馬心猿(絶えず乱れ動く心)と言われる凡心を鎮め、本来の仏心が登場できるように場を調えるための行法が伝えられてきています。それが凡心を鎮める「止」と、仏心で観る「観」、この二つを双修する「止観」が仏教の瞑想です。もし、此岸の心、それがわれわれが普段「心」と呼んでいるものであり、心理学が対象としている「心」なのですが、その心しか想定できなければ、それを二つに分けて、止めようとする心と、止める対象としての心にするしかないわけですが、それではうまくいかないのです。
『信心銘』(北周・隋代の鑑智僧璨作)という中国の禅の古典の中に「動を止めて止に帰すれば、止更に弥よ動ず。唯だ両辺に滞ふれば寧んぞ一種を知らんや」とあります。これは、動揺する心を止めて、心を治そうと努力しても、心の動揺は益々強くなる。両辺(「有」「空」、「動」「止」のような相対立する概念)に囚われていては、一である真の自己を悟ることができるだろうか」という意味です。
片岡: 米国等では大変な仏教ブームですが、どのように受け入れられているのでしょうか。
藤田: 私は昨年、米国のセールスフォースやフェイスブック、スターバックス等の本社で禅の話をしました。熱心な人が多かったですね。タイム誌でもマインドフルネスが特集されたりして、確かに仏教が注目されています。ビジネス界は勿論、軍でもマインドフルネスを訓練に取り入れているそうです。米国はリアルな戦争を体験していますし、戦争まで行かなくても、社会のいろいろな分野でストレスを抱えている人が多い。彼らを援助するセラピストや医師もまたストレスが大変です。「娑婆」というのは「サハー」というサンスクリット語からきているのですが、それは「忍土」、「苦しみを我慢しなければいけないところ」という意味です。もともと仏教は、ライフ・イズ・ストレスフルという認識に立ってできています。その上でどう生きるべきかを考察してきている。これは人間共通のものですから、西洋でも仏教には注目せざるを得ないのでしょう。
西洋で仏教起源のマインドフルネスが普及する端緒になったのは、ストレス低減プログラムでした。そういうものが喉から手が出るほど欲しい状況だったんですね。病院、ビジネス、学校、軍隊、みんなストレスが強くなっている。生徒やその親が日常的に麻薬をやっているような学校があったりして、大人社会の縮図となっています。また、本来安らぎの場であるはずの家庭も、またストレスフル。以前は大きなストレスといえば天変地異や災害、飢饉、戦争とかであったのですが、現代はそういうタイプのわかりやすい肉体的ストレスとは違う、真綿で締め付けられるようなわかりにくい精神的なストレスが増えてきています。仏陀の時代とはタイプが違う、現代独特の新しいストレスについて仏教界も、もっと問題にした方がいいのではないかと思います。
さて、我々はストレスとどうつきあうかについて、賢い方法を学んできていません。ですから、ストレスがあったら、まずなにかで発散しようとします。「忘却」とか「無視」といった回避の方法です。お酒でも、仕事でもいい、何かに溺れることでストレスを忘却しようとする。或いは、そんなものなどないと無視をする。目をそらす。しかし、あるのに無視しているのですから、いつか問題が噴き出てきます。また「破壊」という手もあって、ストレスの原因と思われるものを手っ取り早くやっつけて、取り除こうとするわけですが、これも実はストレスそのものに向き合っているのではないので、本質的には解決ではありません。また、同じようなことが繰り返される。ストレスの背後にはそれをストレスにしてしまうマインドセットがあるはずですので、それを変えなければ解決にはなりません。
現在、マインドフルネスや仏教がコーチングや社員研修のネタとしてとらえられている面もあります。つまり、今、仏教が世間的に注目されているのは、娑婆での生活をうまくやっていくために役に立つ、世間的な適応のために役に立つとみられているからです。だから「○○に効果がある仏教」といったタイトルの本があらわれる。多分にブームに乗っているということもあるのでしょう、仏教としては、それだけではいけないのではないかと思います。仏教の持つ、世間に対する批判的スタンスがあいまいになってしまいます。
世間というのは、どこまで行っても此岸です。我々は必ず死ぬ。年も取るし、病気にもなる。老、病、死が必ずつきまとっているのですが、そういう厄介なことを遠ざける、忘却する、無視するといった手で、何とかごまかそうとするのがわれわれです。しかし、仏教はそれらをちゃんと向き合って認識し、引き受けて、しかもハッピーに、自分だけでなく、みんながハッピーに生きる道があるというのが仏教の主張です。生老病死という人間存在の事実から出発するというスタンスを明確にする必要があると思います。
そういうものが仏教なのだとすれば、仏教は2500年間布教に失敗し続けているとも言えます。ブッダがそういうことを言ってから2500年もたっているのに、まだそのことを言わなければいけないということは、基本的に失敗しているということじゃないですか。成功しているのなら、目覚めた人がもっとたくさんいてもいいはずだと思うんですよ。2500年も時間があったのですから「仏陀」、つまり覚者がどんどん輩出していてもいいはずです。とくに日本は仏教国のはずなのに、これではコストパフォーマンスが悪すぎる(笑)。何か大事なところで間違えている、何か足りないんじゃないかと考えるべきです。特に大乗仏教は「一切衆生悉有仏性(生きとし生けるものは仏になる可能性を有する)」といいながら、皆が仏陀として生きているかというとそんなことはない。そういうことが単なる「お話」として流通しているだけで、実際に、そうした自覚をもって生きている人は殆どいない。勿論、そういう人もいるはずですが、それでもあまりにも達成した人が少なすぎる。大乗仏教の、すべての人を向こう岸にまで渡すまで、そのプロジェクトは終わらないというスローガンは凄いのですが、渡れた人があんまりいない、いたとしてもあまりにも少なすぎるのではないですかね。
片岡: 仏教自身が、彼岸を時代とともに、どんどん遠くにもってくるようにしてきたという面もあるのではないでしょうか。
藤田: そうです。仏陀の頃には、仏陀の説法をちょっと聞いただけで、修行もしていないのに目が開いた人が出たと書いてあります。悟りは終わりではないということです。むしろ、悟りは始まりで、悟ってから本当の修行人生が始まるんです。悟るというのは難しいことではありません。個々の「我」が実体的に存在するという幻想に囚われた此岸の人生観は実は間違いで、実際は縁起といって、あらゆるものがつながりあって存在している、そういうことを腹の底からわかるということなんですから。洞察ですね。
そして、そういう洞察をもって坐禅する。坐禅して、洞察をゲットするのではありません。今の時代は、むしろ縁起の事実を理解しやすくなっているのではないでしょうか。量子力学とか生命科学でそういう事実はいくらでも見つかっている。たとえば、我々の肺は、生まれ落ちる前から、地球の大気の組成をあらかじめ知っているかのようにできあがってくるじゃないですか。つまり、我々の存在自体が環境の条件をあらかじめ勘定に入れてできている。そういうふうな関係的な在り方をしているわけです。
片岡: そもそも完全に閉じた個というものはないのですから…。
藤田: そうです。そういう目で見たら、「袖すりあうも他生の縁」というのは、当たり前のことです。私というもののまわりに、他者、他物が、バラバラにあるように見えるけれど、実は始めから繋がりのなかにある。分離のヴィジョンから繫がりのヴィジョンへとシフトしなければいけません。根本的なパラダイムのシフトです。そうすれば、私も世界も、人生もごっそり変わる、眺めも違ってくるはずです。
片岡: 例えば、所有に関する感覚が変わってくるのは大きいですね。
藤田: この二つのパラダイムの特徴を表す言葉を探しているのですが、此岸は「所有」で、彼岸は「存在」です。Have とBeです。仏陀は、王宮では所有の次元の人生を謳歌していたのですが、そのうちにそれに幻滅して、そこを去って存在の次元へとシフトして仏陀として生きました。彼岸に渡った方がはるかに幸せになれるという実例がどんどん増えてくれば、彼岸が此岸に近づいてきて、気が付けばこちらが彼岸になっているということだってあり得ます。此岸・彼岸はあくまでも説教のための喩であって、本当は川などないのです。此岸から見れば、彼岸があるように見えますが、彼岸に渡ってみると、此岸も彼岸ももともとないということがわかります。全ては繋がっているのですから…。仏陀がブレークスルーして洞察を得て、後の人たちがそれを洗練してきたのですが、そのうち、それがまたあいまいになってくる。するとまた天才的な人が出てきて仏陀の洞察を復活させる、ということが仏教の歴史で繰り返されてきました。
仏教が組織化、制度化というか、悪い意味での宗教化してくると、生き生きしたダイナミズムを失って、形骸化し、正統・異端の基準を制定したりするようになってしまいます。
今、日本の仏教は、三つほどのグループに分けられます。まず、僧侶が職業として葬式や法事を行っているような、いわゆる葬式仏教。仏教を学問として研究している仏教学者の学問仏教。そして法話会のようなところで行われる、ありがたい道徳、人生訓みたいなお説教仏教があります。日本では本来の「修行している仏教」が見えにくくなっています。仏陀自身は一生涯、修行者として生きたわけですが、日本は仏教国であるにもかかわらず、一生修行に専念するような僧侶をサポートする体制が社会の中にも、お寺の中にも殆どありません。修行する仏教は先の三つのグループと相容れません。葬式、法事を主体としている寺で、坐禅会を熱心にやると、檀家から「我々をないがしろにしている」と突き上げがあり、研究者が実際に仏教の修行をすると、研究に主観が混じるとか文句を言われます。そしてお説教する仏教というのは、寧ろ修行しないための言い訳のようなことばかり言っていて、人々が耳に心地よいお話を聞いてそれで感激しておしまいで事が足りるので、もうそれでいいわけです。こうして日本の仏教は形骸化し、僧侶自身も、仏教が悩みを癒す優れた理論と方法を備えていることを本当は信じていない。信じていないから、その方法を実際に実行することをしないままに、表面的な形での仏教の言葉や儀式、習慣が社会の中で流通しています。
仏教も社会に受け入れられて根付いていかないと、生き延びられないのですから、日本の歴史的事情や必要性から、今のような葬式、法事のチャンネルを通して根付いていった。それはそれでいいのですが、そちらの方面ばかりに力を入れすぎた結果、肝心のコアの部分が伝わらないで、適応のための表層の部分が仏教だと思われるようになってしまったという事情があります。そのおかげで、日本にはコンビニよりも多くの寺があります。しかし、社会環境も変わってきましたので、今までの檀家制度的なモデルでは前のような繁栄は期待できなくなってきている。そろそろビジネスモデルを変えないといけないところに来ています。
片岡: 先日、ある老師が、「もともと仏教では、無数の話が積み重ねられていて、中には、決してきれいでない話もいっぱい含まれています。しかし、我々は、かっこいいものだけを取り出して説話し、また書物もそうした部分ばかり集めて作られている。だから、かえって本質がわかりにくくなってしまっているところがあるようだ」と仰っておられました。お説教仏教に代表される形骸化した仏教の弊害ですね。
藤田: 確かに仏教は、今、現実から遊離して宙に浮かんだものになってきています。だから、この辺で、もう一度地面につなぐ作業が必要です。そうしていかないと、かつてのように、実人生に意味と実効のある生きた仏教がなくなってしまいます。鎌倉時代にもそういうアップデートが起きています。当時、貴族のような一部の人たちの死後の安心のため、或いは国の安泰のために仏教があった。しかし、「これでいいのか」「一般の大多数の人たちのために意味のある仏教とはどんなものか」という問題意識から、親鸞や法然、道元、日蓮らが比叡山からおりてきて、民衆の中に入り、非常に大胆な変革を行いました。
法然は特にラジカルで「経典も読む必要がない、線香も上げなくていい。南無阿弥陀仏だけを唱えていればいい」と。ここまでラジカルに仏教をアップデートした人は、南方仏教にもチベット仏教にもいないのではないかと思います。
片岡: 僧侶に対する社会のスタンスについては如何でしょうか。
藤田: 今は、昔のように皆が僧侶のいうことをただありがたく聞くという時代ではなくなって、僧侶が信用を失ってきています。嘗て僧侶は特権的な知識人だった。権力者のアドバイザーみたいなこともやっていました。仏教以外の様々な分野にも通じ、独自のネットワークもありました。そういう形で影響力を持ち得たのですが、しかし今は、僧侶より、知的水準が高い人も増えてきて、昔のような、僧侶の特権的地位がなくなってきている。それに僧侶に向かってずけずけ言っても、罰が当たると思う人もいなくなりました。閻魔さんのような、民衆を脅して言うことに従わせる恐怖装置ももう有効ではない。仏教はもう時代の進展に取り残されています。勿論、中には、時代に対応しようという人たちも出てきています。残るものは残るし、滅びるものは滅びる、自然淘汰が起きてくるでしょう。
今の日本の仏教の主流においては、仏教を教える人も学ぶ人も仏教の有効性を信じていないのではないでしょうか。過去のものとして考えている。建前としては信じているように振舞っていても、本音では信じていない。しかも僧侶の多くは、そういう問題を自覚していません。その一方、今の若い人たちは定職につかないで、自分を表現していこうという人が出てきています。ソーシャルビジネスを模索している人も出てきています。今の時代は、その気になれば、時間は作れるわけですから、修行するのに、出家して僧侶になる必要も昔ほどにはないのかもしれません。これは、今後の仏教にとって、一つのいい土壌になるのではないかと思っています。
片岡: 過激な原理主義によるテロが大きな問題となっています。日本でもかつてオウム真理教の事件がありました。
藤田: 高校時代に、駅で「聖書に興味がありますか」と聖書を学ぶ合宿に誘われたことがあります。行ってみると、すぐ「ああ、これは僕たちを洗脳しようとしているな」とわかりました。神戸の山を朝早く起こして走らせ、疲れさせ、睡眠時間も短くし、そしてやたら暗いところで、教祖の巨大な写真を掲げて、「お前たちは穢れている」「堕落している」と繰り返す。さくらかもしれませんが、中には泣き出したり、けがれていると言って服を脱ぎだしたりする人もいました。なるほど、こうやって洗脳されるのかということを参加観察できました。
オウム真理教の事件は、仏教修行者にとって本当に大きな意味を持つ事件でした。自分のやっている仏教は本当に正しいのかという反省を強烈に迫られました。あれはまさに我々の世代が引き起こした事件で、実際、私の高校を卒業した人たちも何人か入っていました。だから、他人ごとではありませんでした。彼らも、まさに、今の形骸化した仏教を否定して、本来の修行の仏教に帰ることが必要だと言っていました。なぜそこに高学歴な人たちが集まってきたのか。頭だけの世界ではどうしても片付かないような、自分の人生に疑問を持ったような人たちがいて、そこに学歴はないけど「この人は自分たちにない何かを持っているのでないか」と感じさせる人が現れる。自分の中の闇の部分に対する健全な向き合い方というものを知らなかったら、そこに、すっと入ってこられます。まじめな人ほど危ない。だから、彼らは「本気」で間違ったことをしてしまった。
こういう連中をうまく操れるような人たちがいるんでしょうね。たぶん、オウムの場合は、麻原だけでなく、麻原の背後に、彼のキャラをうまく操作できる人たちがいたんじゃないですかね。もっと大きい組織があって、オウムを利用しようとしたのかもしれません。人間である限り、宗教心は誰もが持っていますので、そこうまく操作できれば大きな力になります。宗教の名のもとに何でもやる。そこに付け込もうとする動きは常にありますし、アルカイダやイスラム国のテロを見ればわかるように、昨今ますます強くなっています。
片岡: 特に、今は、格差拡大に、安全保障上の緊張、地震…と社会的な不安が大きいですから…。人の心に入りやすいときですね。政治的には、人心を掌握したり、あえて分裂させたり、或いはライバルを潰させたり、情報を入手したり…。昔から宗教は強力なツールでもありましたね。
藤田: 我々は、そういうことを知っておかなければいけない。先日、フランスに行ってきましたが、どこでも教会は凄い建築物でした。規模も大きい。怒られるかもしれないけど、あれもいわば一種の洗脳装置で、畏怖とか宗教心を掻き立てる装置です。内部に入ると、自然と上を向くようになっていて、上を向けばそこに凄いものが描かれてして、美しく聖なる音楽も流れている…。日本の神社仏閣も同じです。元々、宗教はそうした工夫の粋を凝らし、沢山の宗教装置や宗教環境を作り上げてきました。
1995年は、神戸の大震災が起き、オウムの事件も起きました。不思議なことに、社会が転換するときには、色々なことが立て続けに起きる気がします。今は、そういう時期かもしれない。ですから、オウムも含めて、宗教の名の下で行われてきたことを、ちゃんと見抜いて、宗教リテラシーのようなものを育てていかないといけないと思うんです。そうして、宗教に対する健全なスタンスを保てるようにして、宗教の名のもとに愚行が繰り返されないようにしなければならない。
片岡: 長い時間をかけて方法論も出来上がっているのであれば…、普通の人は、コロッと行く。組織対個、もともと非対称なのですから、社会が支える、或いは既存の宗教等もそうした問題への積極的な対応が求められますね。
藤田: 多くの日本人は色々な悩みを抱えて毎日生きています。それなのに今の仏教は、怒りや不安といった自分の感情の悩みや人間関係の苦しみ、生きることの無意味さといったものをきちんととり上げて、それに応えていない。そうしたものに応える仏教になっていかないといけません。
芸術は、美によって人を陶酔させて、苦しみを一時的に忘却させてくれます。一方、苦しみの原因を破壊しようとするのが科学です。病気の原因である細菌を撲滅するように。では、宗教は何をするかというと、慰めてくれる。近しい人の死を悼む人に、「大丈夫、あの人は本当は死んでいないよ。あの世であなたを待ってくれている。あなたも死んだら会えるのだから、悲しまなくてもいい」と慰めてくれる。人間はそうやって、苦しみ、ストレスに、「科学」と「芸術」と「宗教」という3通りの方法で対処してきました。
しかし、仏教は、そういう宗教ではありません。慰めるのではなく、苦しみ、ストレスを理解しようとします。「破壊」でも、「忘却」でも「慰め」でもなく、苦しみそのものをきちんと理解しようとする。そういう意味で革新的です。智慧の宗教であって、信じる宗教ではない。だから、果たして仏教は宗教なのかということになります。ここが、一神教のモデルで宗教を考えている西洋の人には理解し難いところで、仏教はreligionではなくphilosophyだと言ったり、the art of livingだと言ったり、中にはpsychologyだと言う人もいます。
「仏教では神を立てないのに、なぜ宗教なのでしょうか」という質問をよくされます。仏教でも神々は、仏教を守護する存在として出てきますが、神がいなくても仏教は大丈夫なんです。神を否定するわけではなく、必要としていないということです。創造主がいなくても成り立つような宗教です。それは、神というような特別なものを認めていないからです。すべてが縁起のネットワークの中にあって例外はありません。そういう意味では、非常に革新的な宗教です。今になってやっと、仏教の独自性、ユニークさがよくわかるようになってきています。2500年前のインドで、今、非常に新しいと思われるような洞察の原型ができていたということです。ですから、アインシュタインも「これから生き残る宗教があるとすれば、仏教くらいだろう」と言ったそうです。仏教はまだまだ大きなポテンシャルを秘めている、将来性有望の宗教なんです。
ところで私は、昔から、真善美の中の真に特に興味がありました。最初は自然科学に興味があって、次に哲学に興味がでて、皆が当たり前だと思っていることが「本当はどうなのか」、それを徹底的に吟味したいと思ってきました。ソクラテスは「吟味されない人生は生きるに値しない」といい、ヘンリー・デイヴィッド・ソローは『森の生活(ウォールデン)』の一節で「人生とはいえないような人生は送りたくなかった」と記しています。私には非常に共感できる文章です。
片岡: 聞いた人の人生まで奪ってしまいそうな言葉ですね。
藤田: こうした先人たちは、その言葉を言ったときに凄いレベルにいた。常時凄い人がいるわけではなくて、あるとき凄い言葉や凄い行いが出てきたと見た方がいい。悟った人がいるのではなく、悟りが表現された行いがあるとき、出てきた。行いで人を見ていく。その人はこんな人だと決めつけてしまわないことが大切です。仏陀だって、怒ることもありましたし、皮肉も言っています。しかし、神格化されると、全知全能の超人になってしまいます。仏陀もあくまでも生身の人間ですから、足をけがした時は「痛い」と言ったり、弟子に「背中をさすってくれ」と言っています。仏陀に関しても、仏陀とよばれるに値する行いをしているときに初めて仏陀であって、そうでないときは、仏陀ではないと言うべきです。だから、刻々に仏陀である行為を続けるしかない。悟った人がいるのではなく、悟りの行為がある。そういう見方が仏教的なのではないかと思います。『歎異抄』に「往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」とあります。今は人を殺せるだけの業縁がないから殺さないのであって、自分の心が善良だから誰をも殺害しないというのではない。逆にまた殺したくないと思っていても、百人千人を殺すことになることも状況によってはありえるという意味です。こうした話の言葉の端々に、我々とは全然違うヴィジョンで、世界、社会、人生を見ていることが伝わってきます。結局、仏教はもう一つのヴィジョンをわれわれに提供するものです。凡夫のヴィジョンではなく仏のヴィジョンです。人間の脳の宿命なのだと思いますが、われわれは放っておけばどうしても此岸のヴィジョンを生きてしまいますが、もう一つ別のヴィジョンがあるということは、少なくとも知っておいた方がいいと思います。ヴィジョンが二つあって切り替えが自在にできるようになるといい。その実修が瞑想なんです。
片岡: 貴重なお話を有難うございました。
<完(敬称略)>
聞き手 片岡秀太郎 プラットフォーム株式会社 代表取締役
藤田さんおすすめの本
正法眼蔵(1~4巻) 道元 岩波文庫
「わかってもわからなくても、素読でいいから原文を音読して下さい。道元も声に出して読まれることを想定して書いています。800年くらい前の古い言葉ですが、それを日本語の原文で読めるということは何と幸せなことか。音読しているうちに、じわじわと暗闇に目が慣れるように、だんだんだんだんはっきり見えてくる。人生をとらえ直し、深く生きることを促してくれるような本です。そういう本が日本語で書かれていることが、とても有り難く思えるこのごろです。」