田中良紹 ジャーナリスト
片岡: 今月のインタビューはジャーナリストの田中良紹さんです。本日は田中角栄を中心に「権力」についてお伺いしたいと思います。宜しくお願いします。
田中: 私が政治の取材を始めたときに、角栄はロッキード事件の有罪判決後で、自嘲自戒といって閉門蟄居して悶々としていました。その一方、実は総理をしていた時よりも強い力を発揮していました。誰も逆らえなかった。そういう時に毎週、私は角栄の私邸に通い、個人的に昼食を一緒にとりながら話の聞き役をすることになりました。その時、聞いた話には若干、本音があって、それまでの私の政治の常識を覆すものでした。新聞やテレビが報道している政治、政治構造というものは実は建前で、自民と社民が対立しているのも嘘…、そうした政治の裏側をはじめて見ることができました。そういう目で政治を見ると、全然違うものが見えてきます。
また当時、中曽根政権は、田中派の多数の上にあったので、角栄に背を向けられると何もできませんでした。「私は角栄がいなければ一日たりとも政権運営ができません」などとは中曽根もいえませんから、表では自分がやっているという顔をしながら、いちいち角栄の本音を探りながらやっていました。越山会の女王、金庫番といわれた佐藤昭子をはじめ、秘書や側近の議員…と角栄の本音を知りえるであろう全員に人を張り付けていました。しかし、皆が違うことを言い、全員が、自分が角栄の本音を知っていると思っていた…。つまり、角栄は誰にも本音をしゃべっていないということです。私が角栄の私邸に通っていたことは秘密にしていたのですが、上和田義彦総理首席秘書官がきて、「中曽根が何を考えているか、俺もしゃべる。その代わり君も角栄が何を考えているか、知っていることをすべて話して欲しい」といわれ、毎週お昼にあって話すことになりました。勿論、この時聞いたことは記事にはしていません。しかし、彼が「今度、中曽根はこんなことをする」というと、何日後かにどこかの議員がそれを言い出す。そのうちにまた何日かすると新聞記事にチョロッと載る。そうすると、そのまた反応がある。その反応を見ながら、どこかの時期にまた違うことを言いだす。そうやって、最後に中曽根のいった事が実現する。そのプロセスが見えてくるようになりました。権力だけが白いキャンパスに絵を描き、人を動かせる…。物事は「やります」といってパッとできることなんてありません。必ず反対する人がいます。だから、どこに、どういうふうにいるのか見極めないといけない。そのためにアドバルーンを上げる。そして、反対するこの人は力で押しつぶす、この人はお金を与えて組む…と全部決めていき、最後の最後で自分の決めたところにもっていく。だから、動いている人たちは、その道筋が分かっていないし、使われていることも知らない。でも権力者にはそれが描ける。情報戦です。だから、年中、うその情報が流れ、この世はうその情報で満ちている。その中で皆、右往左往しています。新聞社もそのために利用されている道具です。そういう政治の裏側を、角栄と中曽根の両方を見ることで知ることができました。
片岡: 有罪判決後、田中派はさらに勢力を伸ばしますが、強すぎる権力は崩壊へとつながる…。角栄は追い込まれて無理をしたのでしょうか。
田中: あの時期の角栄は有罪判決を受けて、司法と戦わなければならなかった。角栄は、「自分は無罪、一種のでっち上げで有罪判決を食らった、それを変えるために、派閥の人数を増やして、総理大臣を裏からコントロールすることで、司法の無罪を勝ち取る。そして、もう一度総理になることで、事実上の無罪を勝ち取る」ということを狙っていました。
政治、派閥は、数の論理です。派閥の人数を増やせば、親分の力は強まる。しかし、派閥が大きくなるということは子分にとってはハッピーではなく、自分の存在価値が薄まります。100人になれば1%に過ぎません。だから、ある規模を超えると、派閥は自然に崩壊する。田中派も100人を超えたら不満が鬱積しはじめました。それを誰も表では言えない。それがある時、二階堂擁立劇が起き、終息しても、「動き」が始まります。「反逆していいんだ」ということを皆が知った。
派閥の人は皆、「私は角栄の支持者です。親父は素晴らしい」と思っていました。しかし、「だからこそ」といって分裂が始まりました。金丸信も小沢一郎も角栄が大好きです。大好きだからこそ創政会を作る。しかし、それは角栄にとっては反逆です。反逆だけど、角栄も彼らと気脈が通じ合っているから、やみくもには潰さない。「仲良くやろう」といいながら、だんだん戦争になっていく。権力闘争には敵も味方もないのかもしれませんが、そうやってお互い愛し合っているがゆえに分裂して、それで権力がパッと消えることがあります。
片岡: 反対に自分が総理の時は、あえて、あまり増やさなかったのでしょうか?
田中: 常に全力投球しているのですが、そうしたことは無理してやれるものではなく、状況が作っていくものです。だから状況を読み解く力が必要です。角栄は総理の時、日本列島改造論を打ち出しましたが、実際は石油ショックは起こるし、地価が高騰するし、相当に苦労していました。マスコミは「今太閤」といってもてはやしましたが、実際の政治力学の中では決して盤石ではなく、すべての権力を握っていたわけでもありません。角福戦争もあるし、三木武夫という敵もいましたし…。
角栄は1983年に有罪判決を受けますが、その前は体調も良くなかったし、精神的ストレスも凄かった。有罪判決を受けて野党だけでなく与党からも辞任要求がくる。彼に一つだけあったのは「民意で選ばれた自分がなぜ辞職しなければいけないのか。国民が選んだ議員を止めさせる力は国民しかない」というものでした。だから選挙しかない。しかし、中曽根は選挙を嫌がった。選挙をすれば自民党が負けるからです。解散権は総理の専権事項といいますが、そんなことはありません。政治闘争で、最後の最後まで中曽根は嫌がりますが、田中派という数に押し切られ、ついに選挙をするしかなくなります。結果、角栄は今までにない最高の票を得て、一方自民は負けました。これが角栄を強力な権力者にした。中曽根は益々角栄のコントロール下に入り、角栄はキングメーカーとしての力を盤石にしました。だからキッシンジャーが来日した時、角栄に会いにきました。それは米国が中曽根を権力者と思っていないということです。鄧小平もそうでした。
ところで、ロッキード事件を角栄に対する米国の謀略だという人もいますが、私はそうは思いません。米国がベトナム戦争に負け、民主党のフランク・チャーチという上院議員が中心となって、米国の産軍複合体が世界中にお金をばらまいていたことを暴露、西ドイツは国防大臣、イタリアは副大統領、日本は児玉誉士夫等の名前が出ました。本来、児玉と一番近い政治家は中曽根だったのですが、当時中曽根は幹事長で、中曽根を逮捕すると自民党政権、三木内閣が崩壊する、しかし受け皿がない。社会党は政権を取る気がない。だから自民党政権を潰すわけにはいかない。米国としても、日本としても中曽根を逮捕できない…。そこで角栄に矛先が向かう。角栄はたまたま総理を止めた直後で、そして三木はとにかく角栄を潰したくてしょうがなかった。だから角栄は「俺が総理でなかったから、俺に矛先が来た。ならば、もう一度、権力を取り戻さなければいけない」と思った。実際、キッシンジャーも「あれはやってはいけない事件だった」といっていました。
片岡: 中曽根は米情報機関等とも密接といわれていましたね。
田中: ビキニ環礁で米軍の水素爆弾実験によって第五福竜丸が被ばくする事件を機に、それまで日本ではあまり起きていなかった反核運動が強まってきたことがあります。放射能によって生まれた「ゴジラ」の映画が作られたり、黒澤明が「生きものの記録」(1955年)という映画を作ったり…、一気に燃え上がっていきました。それを「原子力の平和利用」という旗をふって抑えたのが、米情報機関の依頼を受けていたといわれる読売新聞社の正力松太郎と中曽根です。中曽根にはそうした面もありますが、やはり一番は児玉との関係で、それは表には出せない。そうした弱点があるから中曽根は角栄を裏切ることができない。だから角栄は中曽根を総理にした。その中曽根と角栄の間を繋ぎ、連絡係をしたのが佐藤孝行です。ロッキード事件で、唯一有罪判決を受けた佐藤を、中曽根は人事のたびに大臣にしろといっていました。たぶん言わざるをえなかった…。つまり、中曽根は角栄を裏切れない。しかし、中曽根もさるもので、裏でちゃんと金丸と結託していましたが…。
そうして、頂点に立った時が権力の崩れるときです。150人に近づいたとき派閥がばらけ、あっという間にガラガラと崩れていった。また本人も病に倒れました。有罪判決前には好きなゴルフもできないくらいに憔悴していた角栄も、83年10月に判決を受けると、12月には起死回生の選挙でトップ当選し、84年の夏は毎日、2,3ラウンド、夏の間に40ラウンド以上回った。後藤田が「もう一緒に回れない」と音を上げるほどでした。それで、角栄も健康に自信を取り戻し、かつてのように昼間からブランデーを一人で半分ぐらい空けて、再び醤油を手元において何にでもドボドボかけるようになった。そこに二階堂進の擁立劇や竹下登の創政会があって、酒が止まらなくなっていった。そして脳こうそくです。権力が消えたとたん、周辺は蜘蛛の子を散らすようにいなくなります。尤も倒れてすぐは、皆、ちょっと疑っていました。政治家の病気は嘘が多く、本当に重い病気の時は軽い風邪だとか言い、病気でないのに入院することもあります。
片岡: 試すわけですね。
田中: 政治は誰も信用できない世界です。病気で入院すると、それまでゴマを擦っていた人が寝返ったりすることがある、それを見るためにわざと入院したという偽の情報を流すということもあります。だから、一瞬皆わからず、政治が止まってしまう。そして2~3週間たって、「どうも重いらしいぞ」となってくると動き始める。角栄の時は、事態を決定づけたのは娘の眞紀子でした。眞紀子は事務所を閉鎖し、早坂茂三や佐藤昭子等の主要な事務所のスタッフの首を切ってしまった。それで「あ、これはもうないな」となって、そうなった瞬間に権力が消え、中曽根と金丸に移った。例えば、リニア新幹線はそれまで角栄の意向に従って東京から新潟と、日本海側を通って大阪に行く、そういうプランが作られていました。しかし、角栄が倒れた、権力がシフトすると途端に路線が変わって、山梨から富士山の周辺を通っていく金丸の路線になった。そういうことがどんどんおこってきます。
片岡: NTTもそうですね。
田中: NTTも真藤恒が初代社長に付いたのは、金丸、中曽根の意向です。この国の権力はNHKと電電公社と警察を抑えるということが大切です。この人選を、ある時期は角栄が影響力を持っていた。そこに中曽根・金丸連合軍が戦いを挑んだ。そしてNHKの人事は殆どが中曽根人事になっていく。中曽根を担当していた政治記者がどんどん理事になっていく…。
片岡: ところで、先程、自民党と社会党が手を組んでいたと仰っておられましたが、そのことをもう少しお話下さい。
田中: 自民党政治は、そもそもイデオロギー政治ではなかった。だから保守でもなんでもない。自民党は国民政党ということで、右から左までいて、色々な業界団体を全部自分たちの支持者にして、万年与党をしていた。ある日、目白の私邸で国鉄労働組合の委員長が角栄と一対一で密談していました。角栄によれば、公務員の賃金決定やストライキの処分問題などについて相談が持ち込まれてくるそうです。そして「日本の政治で一番問題なのは野党がないことだ。社会党は野党ではない。労働組合だ。かつては社会党も政権を取ろうとした時期があった。しかし今は政権を取るだけの候補者を選挙で立てていない。労働組合と同じで、要求をするだけだ。それが日本の政治の最大の問題なんだ」といいました。労使交渉においては、経営側も組合側もおおよそ相手の本音はわかっている。むしろ分かったうえでそれと異なる条件と要求を出し合い、厳しい徹夜の交渉の末、最終的に経営側が要求を呑む形で組合のメンツを立てて手を打つ。するとマスコミが「今百円玉一個を巡るギリギリの攻防をしています」などと報ずるものだから何も知らない組合員や国民は騙されるという構図です。確かに社会党も修正要求をするだけで、この国の経営を行おうとはしていない。それを我々マスコミが野党と呼んできました。しかし、実際は、この国の経営を巡って権力闘争をしているのは、実は自民党内部の派閥であって、その主流・非主流の対決こそ「与野党激突」と呼ぶべきもので、自民党内の権力闘争に野党が裏で協力する。それがこの国の政治の構図で、そう考えると自民党長期政権の理由も派閥の存在理由もわかります。
そうしたことが長期化すると、おかしなことも起こってきます。例えば、当時の国会は、予算委員会で野党が自民党のスキャンダルを追求し、審議を止めるパターンが定着していました。それしか野党が与党に対抗できる方法がないというのが審議拒否の理屈でした。しかし、その裏舞台では審議が止まると与野党の国会対策委員会が動き出します。そこからは裏取引の世界になり、その中で与党から野党へお金が流れる…。国対政治の中心にいたのは竹下、金丸でした。角栄が病に倒れ、永田町が奇妙な安定が支配していたころ、竹下が「金丸の家に行って、カレンダーを見てみろ。今月のところには何もないが、一枚めくると来月だ。大きな丸印がついている日がある。それが国会の召集日だ。野党とはすべてのスケジュールを決めてある。いつ審議を止めて、いつ立ち上がるかもわかっている。審議が止まったら一対一の交渉になる。誰も入れない。誰にも教えない。二人だけで腹に収める。テーブルの上にすべての法案、すべての案件を並べて交渉する。そこで法案の帰趨が決まる。何を成立させ、何を継続にし、何を廃案にするかが決まる」といいました。また別の時に「どうやって野党に金を渡すかわかるか。野党に金を受け取らせるのは簡単ではない。簡単に金を受け取るやつはいない。だから少しずつやるんだ。麻雀で負けるのも、海外旅行に行くときに餞別を贈るのも、そのためだ。そういうところから始まる。一番良いのは奥さん同伴の海外視察旅行だ。そこで奥さんぐるみの関係ができる。日本に帰ってからも一緒に食事したりして、そのときに奥さんに贈り物をする。そうやって少しずつ受け取らせるようにする。金を受け取らせるのは難しいものだ」といいました。
そして、この国の政治のもう一つの問題は、アメリカという権力とどう向き合うかです。80年代に米国の水田を取材したことがあって、その時に、米国の農務省の元次官が精米工場の社長に「なぜ米国は、自分たちは食べないのに水田の面積を増やすのか?」と尋ねたことがあります。彼は「これからヨーロッパの人たちに食べてもらう。ヨーロッパはEUになったとたん関税撤廃して、米国から食料を輸入しなくなった。域内で全部自給できるようになった。そこで、ヨーロッパで作れない作物は何かと考えたら、それは米でした。だから、今後、ヨーロッパがコメを食べるようにして輸出したい。実際、我々は日本で成功した。パンを食べるように誘導して小麦をどんどん輸出できるようにした。チューリッヒに事務所を設立し、コメは完全栄養食品で子供の健康にはコメをというキャンペーンなどやっていきます。また第二次大戦後の戦争は多くがコメを食べるところで起きている。朝鮮、ベトナム、中東と。だからコメは戦略物資です」と。RMA(Rice Millers’ Association)というところがあるのですが、そこのロビー活動が最も凄かった。ここは台湾、韓国など色々なところに米国のコメを受け入れさせようとしていました。日本が国会でコメを一粒たりとも入れないとやっていたころです。その時、「日本はおかしい。我々は日本の自動車を輸入しているのだから日本も本当は米国のコメを輸入すべきだ。ただ、自民党の支持基盤は農村にあり、また農村と都市に所得格差がある。その限りではコメを保護するのは許せる。でも所得格差はなくすべきだし、自民党の支持基盤は農村だけにしておくべきではなく、都市を支持基盤に移すべきだ。それが成功した暁には、我々は日本にコメを輸出する」といっていました。3-4年後、中曽根がダブル選挙で300議席とって「自民党は都市に支持基盤を広げた」といったとたんに、USTR(Office of the United States Trade Representative 米国通商代表部)が米を輸入するように求めてきた。それで困って、ミニマム・アクセス米を決め、税金でコメを買って倉庫に入れ…。
昔の自民党には議席を取り過ぎてはいけないという隠れた意思がありました。議席を自民党がとってしまうと、米国の要求をはねつけることができなくなるからで、実は自民党と社会党が密かにツー・カーになることで、日本の政治は、体制を維持してきました。同じように憲法を変えさせないというのも自民党の隠れた意思でした。変えてしまえば、「アジアの戦争は日本にやらせたい」という米国の要求を呑むしかなくなる。それに抗するためには平和憲法を守る。そのために3分の1以上の議席を社会党にとらせる。自民党が、本気でやったら社会党は潰れたはずです。それを自民党は社会党にわざわざ取らせて、その代わり社会党は万年野党でいました。実際、選挙では社会党は過半数を取れる候補者をだしこなかった。つまり初めから政権を取る意思がない。そうした壁を作っていたのが角栄や金丸で、彼らが社会党の右派と完璧に手を握っていやってきたことです。
片岡: 貴重なお話を有難うございました。
<完(敬称略)>
聞き手
片岡秀太郎 プラットフォーム株式会社 代表取締役
田中氏おすすめの書籍
『サピエンス全史(上・下)文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ著, 柴田裕之 訳 河出書房新社 2016年
『富国と強兵』 中野剛志 著 東洋経済新報社 2016年