「我が国の歴史を振り返る」(74) 「大東亜戦争」の総括(その2)
▼はじめに
さて、前回取り上げました奈須田敬氏は生前、昭和時代だけを深堀する多くの昭和史研究家らに対して、「昭和を知るのに、昭和時代だけを探求しても答えは見つからない」と口癖のように批評しておられました。
まさに自ら執筆された「『重臣たちの昭和史』論」などは、その事実を如実に物語っているとの認識を新たにしておりますが、私自身も歴史を紐解いてみて、ようやく奈須田氏の語っておられたことの何割かを理解できるようになりました。
批判を覚悟で申し上げれば、昭和の軍人達の政治的活動はあるまじき行動であることは明々白々ですが、それをさせた、そうせざるを得なかった明治憲法をはじめとする国の統治制度や国民の精神の変遷の中にも、歴史から学び、未来に活かす様々な反省事項、教訓・課題が山積していると思うのです。
のちに触れますが、米国など連合軍が6年半あまりの占領期間を費やすことになったのは、終戦直後、①我が国の「抵抗力」(彼らは「好戦性」と呼称)の“根”がどの程度深く、②その根源がどこにあり、③いかにしてその根源を取り除くか、を考察した結果であり、彼らが目指した日本改造の主体こそが、「国体」ともいうべき我が国の統治制度や国民精神そのものでした。
これらの変遷や特性を語らずに、マッカーサーの代弁者のような“したり顔”で、昭和の動きのみを論じている研究家達があまりに多いことに、奈須田氏同様、正直、驚かざるを得ません。
▼我が国の立憲君主制度の生い立ちと特性(後段)
さて、前回の続きです。イギリス流の立憲君主制を実現するための手段として明治憲法に「輔弼責任制」を採り入れましたが、憲法には“輔弼の責任を有する”「国務大臣」は規定されています(55条)が、「内閣」そのものの規定はありません。
「内閣」は、“天皇を輔弼する国務大臣が協議するために設けられた組織体”と位置付けられ、内閣総理大臣は内閣府の“番頭格”あるいは“世話人代表”でしかありません。当然ながら、国務大臣の任免権もありませんでした。
一方、内閣総理大臣は、初代の伊藤博文が就任した際の要領、つまり「“元老”の助言に基づき『大命降下』という形で天皇が任命する」慣例が出来上がります。
まさに、現日本国憲法に規定されていない「自衛隊」のようなもので、戦前の「内閣」はあやふやで不安定なものにならざるを得なかったのです。
明治時代は、この不安定さを「元老」がカバーしておりました。特に、日清・日露の戦争指導の見事さは、まさに英邁な明治天皇の統治能力とぴったり呼吸があった元老(元勲)グループのチームワーク、任務分析と協力の賜物でありました。
しかし、この「元老」(元勲)もまた憲法に規定はなく、「元老」も天皇の勅書をもって任命されます。その勅書には、明治天皇に倣い、大正天皇も昭和天皇も各元老に贈った共通の言葉として、「勲」「輔」「導」が含まれ、「国家の『元勲』であり、天皇を『輔導』するものである」ことを明示しておりました。つまり、「元老とは、天皇の御指南役であり、『摂政』と紙一重であった」(奈須田氏)のです。
とにもかくにも新憲法制定を至上命題とする伊藤の苦悩が見えるようですが、このようにして、明治時代の特性から来る様々な“妥協の産物”的側面を残したまま、プロシア方式とイギリス方式を混合したような“二重性”を有する憲法が出来上がります。
その上、「元老」「内閣」「枢密院」など“憲法に規定されてない権力や機関”をもって天皇を補佐するという、明治初期の天皇中央集権の名残り(余韻)を保持した形で、我が国独特の統治制度が出来上がったのです。
▼「統帥権の独立」の特色と問題
その中で、「統帥権の独立」についてはさらに複雑な要素を残していました。もう少し補足しましょう。明治憲法では、「統帥権」は、憲法上「統治権を総攬」とだけ規定された行政権の範疇に入るか否か、あるいは、前述のように、行政権を管掌する国家機関は内閣(政府)であるか否かが曖昧でした。
欧米諸国では、一般に軍の統制は行政権の範疇に入り、政府が所掌しますが、プロシアの軍制にならった我が国は、軍令(統帥権あるいは統帥大権)と軍政(行政権)を分立する二元主義を採用したのでよけいややこしくなります。
憲法第11条の「統帥大権」は、行政府とは別個に天皇に直属隷属する「統帥部」がそれを所掌する仕組みですが、「統帥部」は陸軍の参謀本部と海軍の軍令部からなり、それらの長である参謀総長と軍令部長が統帥権行使を補佐することを「輔翼」(ほよく)と称していました。
他方、陸海軍に関する行政(軍政)は、内閣(政府)を構成する陸軍大臣(陸軍省)と海軍大臣(海軍省)が所掌していますが、陸軍大臣と参謀総長、海軍大臣と軍令部長はいずれも天皇に直属する併立の独立機関だったのです。
その中でも問題になったのは、軍政のうちの軍事専門的行政といわれた軍の編制、装備、兵力量などに関する事項でした。一般には軍令と軍政の「混成事項」と称された部分です。
明治憲法の第12条に「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」とあり、「編制大権」と呼称されます。これは上記「混成事項」そのものでした。そして、この「編制大権」も「統帥大権」同様、原則的に内閣に帰属する一般行政権の“範疇外”と見なされることが多かったのです。
つまり、「編制大権」の行使は、“陸海軍大臣による”「補翼」とされ、参謀総長・軍令部長とそれぞれ協議した上、閣議に付議する必要なく、内閣総理大臣にのみ報告する慣習が出来ていました。
つまり、陸海軍大臣は、①国の行政全般の議に参画する国務大臣であり、②編制大権に関する天皇の補佐者であり、③有事に編成される大本営の構成員である・・それゆえに陸海軍大臣は現役大中将でなければならないという主張が出始めたのです。
最初にここに眼をつけたのが、山縣有朋が首相の時に規定した「軍部大臣現役武官制」(明治33年)でした。これによって“軍部の合意なし”に組閣することは困難になりました。
すでに触れましたが、「軍部大臣現役武官制」は大正2年、山本権兵衛内閣の時に削除されますが、「二・二六事件」以降の昭和11年、広田弘毅内閣の時に復活します。
なお、軍令も軍政も陸軍・海軍がそれぞれ併立していたことが陸海軍の対立を生む要因となりました。正確に言えば、明治19年からしばらくの間、「参謀本部」として海軍の軍令機関が陸軍に統合された時期はありましたが、様々な議論を経て、明治36年以降は、平時も有事も、陸海軍の軍令・軍政ともそれぞれ併立の独立機関になります。
▼大正時代以降の立憲君主制の特色
さて、我が国の立憲君主制度の“実態”は、大正時代になると急変します。明治維新によって天皇中央集権体制を作り上げ、天皇の信頼の厚かった元老たちが次々に他界します。そして、日清・日露戦争以降の元老達は、ご指南役としてはいかにも小粒になったばかりか、大正デモクラシーによって世論の影響力も増大してきます。
こうして、欽定憲法、不磨の大典、神聖不可侵である明治憲法の矛盾が露呈し、苦悩が始まるのです。
特に、原敬が暗殺され(大正10年)、山縣有朋が死去(11年)すると、どの政府機関も固有の権力を主張し始めます。外務省は外交の支配権を、司法省は法制度の支配権を、枢密院や貴族院も独特の地位を、その延長で陸海軍も「統帥大権」をことさらに主張し始めるのです。それがあまりにひどくなり、政治的合意を維持することが困難になり始めます。
ことに、軍部と文民の間の争いが政治全体に染み付き始めます。その象徴が、交通巡査の信号を無視して逮捕されそうになった1等兵が「自分は兵士だから警察官の命令には従わない」と抵抗した、有名な「ゴーストップ事件」でした。
ついには、陸軍大臣も「天皇の兵士」と主張し、内務省も「天皇の警察官」と言い返しますが、「皇軍の威信に関する重大な問題」と言明する所まで話が及びます。本事件は、天皇の耳にも入り、些細な事件の解決に5カ月も要する抗争となり、ようやく妥協するとの顛末を迎えます。
このようにして、大正時代以降、「国家指導者」不在のまま「国権の最高機関」として「天皇大権」が出来上がります。これが我が国の統治制度となり、“時勢”への適応性を欠いたまま、激動の昭和に突入していくのです。
▼明治以降の日本人の“精神”の変遷
「大正デモクラシーによって世論の影響力も増大した」と記載しましたが、明治以降の日本人の“精神”の変遷が歴史に及ぼした影響もかなりありました。この精神の変遷も振り返ってみましょう。
最近、絶版となっていた文芸評論家・桶谷秀昭氏の『昭和精神史』が復刊され、キンドルでも読めるようになりました。復刊された序文には次のように記載されています。
「日本の戦後は、敗戦の虚脱から深い吟味もなく過去を否定しようと努めてきた。しかし、大東亜戦争は本当に一部指導者の狂気と産物と片づけられるのだろうか――桶谷氏はこの昭和前史を、既成の史観から断罪するのではなく、変革と戦争を必死で生き抜く日本人の喜び、悲しみ、苦悩を丹念に寄り添いながら、再検証を試みました。・・時代は違えど令和に生きる私たちにとっても、激動の時代だった昭和時代の日本人の心の軌跡をたどることにより、私たちの先人が何を考え、何を思ったかを感取することができのではないでしょうか」とです。
桶谷氏によって解説された、明治以降の日本人の“精神”の変遷の概要は以下のとおりです。
明治維新以降の「和魂洋才」の定着は、明治後半になると「自然主義」という名で個人主義的近代思想に発展し、やがて大正デモクラシーとして発達します。
そして、吉野作造に代表される大正デモクラシーの思想家にはマルクス主義者は一人もいなかったのですが、大正12年、マルクスの『資本論』が完訳され、次第に読者を増やします。昭和に入り、「世界恐慌」の我が国への波及が契機となって、瞬く間にマルクス主義革命運動が台頭、随伴する文化運動としてプロレタリア文学も隆盛をみます。
この昭和のマルクス主義の特徴は、マルクス主義のロシア的形態であるレーニン主義が信奉されたことでした。ロシアにおいては、資本主義の発達が西欧から遅れていたコンプレックスを克服する手段としてレーニン主義が発達したように、我が国においても、西欧近代の克服の手段としてレーニン主義が信望されることになったのです。
▼我が国の「ファッショ化」の特色
そのような日本がなぜ「ファッショ化」(ファシズム)の道へ進むことになったのでしょうか。「ファシズム」には様々な解釈がありますが、一般に「強力な軍事力によって国民の権利や自由を抑圧する国家体制」といわれ、「全体主義」とほぼ同義語です。これについては、評論家の竹山道雄氏が『昭和の精神史』の中で興味深い分析をしております。
1930年代、「ファッショ化」は決して日本だけの現象ではなく、ソ連に接した国のほとんど全部、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、さらには南米諸国もこの体制をとりました。しかもこれらの現象には共通の原因があったのです。
これらの国々は華やかな中世を経験した国が多く、中世の原理が深く根ざしていたため、近代国家の出発が遅れ、「持たざる国」となったのです。しかも、第1次世界大戦後の世界不況、対外関係の困難や思想の混乱からそれらへの反作用として「ファッショ化」したのでした。つまり、「ファッショ化」は日本固有のものでなく、“現代的な現象”だったのです。
一方、我が国の「ファッショ化」は、明治以来の立憲君主制の特殊性と我が国で発達したマルクス・レーニン主義とを見事に吸収するような形で発達したことも事実です。
混沌とした昭和初期において、我が国が辿った“実態”を解明するのはなかなか難しいですが、中でも、軍という圧倒的な力を持った組織がなぜ“独立した政治意識”を持つようになったのかについては、次号で触れてみましょう。(以下次号)