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「我が国の歴史を振り返る」(14) 明治維新による“国家の大改造”

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▼はじめに(『反日種族主義』を読む)

たまには、冒頭で時局を取り上げてみましょう。22日、韓国が軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の協定破棄を凍結し、失効が回避されました。仮に破棄されても、両国の関係が直ちに壊れるようなことはなかったとは思いますが、東アジアにおける中国と米国の“パワーバランスの変化”や米朝会談など朝鮮半島情勢への影響は計り知れないものがあっただけに、特に日米首脳は安心したのではないでしょうか。逆に、中国や北朝鮮などはがっかりしたことでしょう。

それにしても、このような韓国の“常軌を逸した対日政策”はどこから来るのだろうと考えていた矢先、韓国のベストセラー『反日種族主義』を偶然、書店の店頭で見つけました。11月15日、日本語に翻訳されて出版されていたのです。さっそく購入して読んでみました。一読して、まず「編著者の李栄薫氏をはじめ6名の著者達の“身の安全”は大丈夫だろうか」という心配が頭をよぎりました。

そのプロローグは「韓国の嘘つき文化は国際的によく知れ渡っています」で始まりますが、著者達は学問を職業としている研究者の“良心”に従い、あえて韓国の現在の“世情”に竿をさし、蛮勇ともいうべき勇気を振り絞った結果、本書が出来上がったのでした。その勇気に心より敬意を表したいと思います。

本書は、韓国社会の“嘘が善として奨励される”源は、半島に長い歴史を持つシャーマニズムにぶつかるとして、善と悪を審判する絶対者(神)が存在しないシャーマニズムを信奉する集団は“民族”とは言えず、それ以下の“種族”や“部族”レベルだと指摘します。しかも、隣の日本を永遠に仇と捉える敵対感情を有していることから、本書を『反日種族主義』と命名したとのことです。

本書を読むと、戦後、“韓国が主張しているすべてが全くの嘘である”ということがよくわかります。細部はこれから読む人々にために省略しますが、①朝鮮併合時代の日本の支配、強制動員・強制労働、徴用工の請求権、②独島の帰趨、③慰安婦問題など、日韓両国の懸案事項に対する韓国の言い分は、歴史的事実に照らして“虚構”であり、“間違っている”と詳細に検証しています。

このように、私達日本人が読むと納得することばかりなのですが、長い間、教科書などで真逆のことを教えられ「反日種族主義」に凝り固まっている大多数の韓国人の“怒り心頭”が容易に想像でき、冒頭の心配に繋がるのです。

喜んでばかりはおられません。本書は、最後に「反日種族主義がこの国を再び亡国の道に引きずり込んで行くもかも知れない」と警鐘を鳴らし、「反日種族主義の横暴に対して、韓国の政治と知性があまりにも無気力だ」と嘆いています。

その警告はけっして他人事ではありません。“韓国の亡国が我が国の生存にバイタルな影響を及ぼす”のはいつの時代も明々白々だからです。よって、先人達は、その亡国を食い止めるため、やむを得ず、戦争という強硬手段を選択したのでした。問題は、そのような強硬手段が取り得ない将来です。

韓国が真に亡国に瀕するような場合、(それを防止するために)我が国はいかなる行動ができるのでしょうか。対岸の火事として放置するのでしょうか。米国に懇願だけでしょうか。元自衛官の性かも知れませんが、“口には出さずともそろそろ考えておく必要性”についても頭をよぎりました。

さらにもう1点、「反日種族主義」と同様の“性癖”が我が国にも内在していないか、という点です。取り上げるだけでも呆れますが、最近の「桜を見る会」の議論などに“国家を統治する知性のかけら”があるのか、とどうしても疑ってしまうのです。興味のある方はぜひ本書をご一読下さい。

▼「天皇親政」から「立憲君主制国家」へ

さて本題に入りましょう。明治維新による“国家の大改造”の中身をしばらく掘り下げてみましょう。まず、「国の政体」(統治形態)です。大河ドラマなどではあまり取り上げられませんが、幕末から明治時代、「国の政体」は3回、大きく変わります。

最初は、『王政復古の大号令』(1867年)です。「王政復古の大号令」とは、徳川慶喜の“征夷大将軍職廃止の勅許”だったのですが、同時に、摂政・関白を中心とする「摂関政治」も廃止します。これを受けて、「天皇親政」を行い、「総裁」「議定」「参与」の3職を配置、「総裁」には有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)が就任されました。これは、政体を単に武家社会が始まる前に戻すだけではなく、我が国の初代天皇である神武天皇の“建国の精神”に立ち戻ることをうたったといわれています。

この大号令が「戊辰戦争」の引き金になるのですが、その最中の1868年3月、明治天皇は『五箇条の御誓文』を発しました。有名な「広く会議を興し、万機公論に決すべし」「上下心を一にして、さかんに経論を行うべし」など5つの「御誓文」を明治政府の基本方針として示し、我が国は、日本は西洋文明を取り入れて近代的な「立憲君主制国家」として発展していく方向を決めたのでした。 

そして、同年4月、「御誓文」に基づく「政体書」を公布し、伝統的な「律令制」に定められた「太政官」に権力を集中すること、またアメリカ合衆国憲法を参考にして「太政官」のもとに立法・司法・行政の3権に分立することなどを定めました。この制度は、当時としては急進的過ぎて国情に合わず、明治政府の権力の基礎を固めていくうちに形骸化してしまいます(細部は後述します)。

「国の政体」の改革だけでも明治政府のご苦労が偲ばれますが、とにもかくにも、同年7月には江戸を東京と定め、明治天皇も移り込まれました。「戊辰戦争」によって禍根を残すことになった東北など東日本地方を静定するために首都を東京に移したといわれています。1868年9月には元号を「明治」と改元し、「一世一元制」も定めます。

▼1200年間も温存された「律令制」

「国の政体」についてもう少し補足します。本歴史シリーズは、我が国が欧州列国と関わりを始めた16世紀ぐらいからスタートしましたので、我が国の「国体」とも言える“天皇家に権威が属する”「律令制」については言及しないままでした。

「律令制」は、中国の制度を参考にして7世紀半ばから導入が議論され、最初の本格的な律令法典として「大宝律令」(701年)が定められました。これにより我が国の「律令制」が確立され、「日本」という国号や最初の制度的元号である「大宝」も正式に定められました。律令法典の細部は省略しますが、社会規範を規定する刑法的な「律」と社会制度を規定する行政法的な「令」が中心となり、それを補う「格」や「式」からなる法体系で出来上がりました。

ちなみに、元号が初めて使われたのは、「大化の改新」(646年)で有名な「大化」からです。またこの時から、「日本」という国号や「天皇」という称号の使用も始まりました。しかしその後、元号は途切れる時もありました。「大宝律令」によって元号が制度として正式に定められ、途切れることなく現在に至っています。

驚きなのですが、本家本元の中国には、「律令制」という呼称は存在しないようです。日本のモデルとなった隋や唐の「律令」は、その後、時代を経るごとにめまぐるしく変遷し、「律令」という言葉で一括りにできないからだそうです。我が国においても、時代を経て幾度か見直され、718年には「養老律令」(律10巻12編、令10巻30編)が制定されました。

しかし、この「養老律令」も平安時代になると現実と齟齬を来たし始めますが、平安時代末期以降は「武家社会」となり、廃止法令が出されないまま「政治体制」そのものが変わってしまいます。そして、武家社会においては、有名な「御成敗式目」や「武家諸法度」などの「武家法」は制定されますが、「律令制」はそのまま残ってしまったのです。

以来、約1200年間も温存された「律令制」でしたが、明治初期には少し形を変えて生き残り、ようやく1885(明治18)年、「太政官制」に代わる「内閣制度」が創設され、1889(明治22)年の「大日本帝国憲法」によって実質的に完全に廃止されます(いつ廃止されたとみなすかについては諸説あります)。

現在においても遅々として進まない憲法改正ですが、「大日本帝国憲法」や「日本国憲法」を含め、一度制定した法制を、たとえ形骸化しても廃止あるいは改正しないのは、我が国の“伝統”といえるのかも知れません。「本来、性善説の我が国は、法制に過度に依存しない国柄である」(渡部昇一氏)との指摘がそのことを物語ります。

▼中央集権化へのプロセス

さて、「明治維新の細部については歴史物語や大河ドラマにまかす」と断りましたが、司馬遼太郎氏が「世界史の中の一つの奇跡」と解説した明治時代の奇跡の象徴の一つが「中央集権化へのプロセス」だったと考えます。このプロセスを振り返っておきましょう。

「戊辰戦争」(1868~69(明治元~2)年)で佐幕勢力を打倒した後、明治政府は、旧幕府の天領や東北諸藩の所領を没収し「県」として、また京都・長崎・函館を政府直轄の「府」としてそれぞれ知事を任命して治めましたが、全国の大部分の地は従来の諸藩がそのまま治めていました。

しかし、西欧列国に伍して近代国家建設を推進するためには、何としても中央集権化した政府(「天皇の元にある中央政府」)による地方の支配強化が必要不可欠でした。そこでまず、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主を説き伏せ、1869(明治2)年3月、土地(版)と人民(籍)を朝廷に返上させました(「版籍奉還」です)。4藩主にならって、他の藩主も同年6月までにこれを実施し、旧藩主は知藩事に任命され、封建領主から官僚となりました。

同時に、政府は「官制改革」を行い、着々と陣容を固めて権力を集中します。そして知藩事の家禄を現行の10分の1に下げるなど相次いで藩政改革を実行しますが、いよいよ藩の存在が邪魔になります。他方、藩側でも財政逼迫が続き、自発的に廃藩を申し出る藩も相次ぎますが、廃藩を強要する力はまだ政府にはありませんでした。

そこで、戊辰戦争後、鹿児島に帰っていた西郷隆盛を上京させ、薩摩・長州・土佐3藩の兵1万を集め、「御親兵」としました(1871(明治4)年)。“アジアで初めて”といわれた「国軍」の誕生です。そして同年7月、西郷と木戸が中心となって「廃藩置県」を断行することになります。

こうして、最初は3府302県、その後に整理されて3府72県の「府県制度」が完成し、知藩事に代わり、政府が任命する府知事・県令(のちに県知事)が派遣され、一挙に「中央集権体制」を造り上げます。 府知事や県令達は東京居住を義務づけられますが、華族として身分・財産が保証されたこともあって、薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外、目立った反発はなかったようです。

明治時代になり、わずか3年あまりで国家の支配体制が電撃的・画期的に改革されたのはまさに“奇跡”でした。ここに至るまでには様々な葛藤があったことは事実ですが、細部は歴史物語などに任せることにしましょう。次回以降、近代国家として「国力」増強のためのプロセスについて振り返りましょう。

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