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「法の支配」の幻想について4

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―裁判所は「円形監獄」、裁判官は「司法の囚われ人」-

戦後司法のDNA

前回述べたように、アメリカ占領軍の基地拡張反対のため立ち入り禁止の基地内に侵入した被告らの処罰が問題となった刑事事件で、日本政府による占領軍の駐留許容が憲法9条の禁止する「戦力の保持」に当たるとして、無罪とした東京地裁判決(いわゆる砂川事件に関する「伊達判決」)にショックを受けて、当時の最高裁長官田中耕太郎が、占領国アメリカ合衆国の意を戴し、その出先機関と密接に連絡を取りながら、跳び越し上告の手続きを進め,「全会一致で、世論を紛糾させそうな少数意見を避ける方向」で、手続き・内容の両面で審理手続きを指揮・遂行していたことが、2008年に行われたアメリカの外交機密文書の公開により実証されるに至った。
この田中の行為は、日本国憲法76条に規定された「裁判官は良心に従い独立して職権を行い、この憲法と法律のみに拘束される」とする「法の支配」の基本原則を真っ向から踏みにじったものであることは疑いの余地がない。
「親の背を見て子は育つ」というが、田中耕太郎最高裁長官は戦後法律家の頂点と仰がれてきた人物であるから、このDNAは一貫して今日の日本の法曹界に継承されていると推測されても致し方なさそうである。
絶望の裁判所 こうした中で、近年我が国言論界では、裁判の客観性を問う傾向が目立っており、特に最近では退職裁判官による裁判所の内側から見た内部告発的文書が次々と出版されている。中でも、『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著、講談社現代新書)と題する書物が昨年の春出版され、現在における我が国の裁判所の否定的側面を元裁判官の立場から極めて赤裸々に記述したことから、賛否の如何は別としてかなりの話題を呼んでいる。
この書物は、日本の裁判所の特徴は「(最高裁)事務総局中心体制」に基づく「上命下服、上意下達のピラミット型ヒエラルキー」であり、「骨の髄からの司法官僚」が支配する「精神的収容所群島」であり、異端者は排除され、同質的、役人的裁判官を純粋培養する閉鎖的社会とし、このような組織には「自浄作用が期待できず、劣化、腐敗は止まるところを知らない」とまで極言している。
また著者は、30年余に亘る裁判官生活を省みて、「私が若かった頃には、裁判官の間には、未だ、『生涯一裁判官』の気慨があり、そのような裁判官を尊敬する気風もある程度は存在した」のに対し、最近では「マジョリティ―の裁判官の 行っているのは、裁判というより『事件の処理』で」あり、彼らは「裁判官というよりは、むしろ『裁判を行っている官僚、役人』、『法服を着た役人』という方がその本質にずっと近い」とも断定している。
この様な考察は、法学者として多数の裁判官に接し、中には長期に及び公私にわたり親しく薫陶を受けてきた筆者自身の50年を超える見聞、その後10年余に及ぶ弁護士としての活動を通じて、これまた多数の裁判官に接してきた筆者の実感とある程度まで符合するところがある。
元裁判官による現在の日本の裁判所についてのこのような否定的評価は、この瀬木氏のもの以外にも数多く出版されている。

司法権力の内幕

この瀬木と同じく、元裁判官の森炎弁護士が最近出版した『司法権力の内幕』(ちくま新書)も、同様に裁判官は司法権を行使する権力の行使者である筈だが、実際は「権力の囚われ人」であり、「ちょうど囚人と同じように、その身に権力の作用を受けている」「司法囚人」であり、「日本の裁判官は、自由な存在ではない。司法権力が裁判官を拘束している」としている。
但しこの森氏の著書は、前記瀬木氏の著書を含む、日本の裁判所に対する否定的評価のステレオタイプともいうべき最高裁事務総局に支配された官僚組織とするという考え方(その代表的なものとして新藤宗幸『司法官僚-裁判所の権力者たち』(岩波新書)がある)には違和感を表明し、むしろより深く「裁判官の独立」の神話が絶対視される裁判所組織に内在する病理を数々の具体的事例から極めてビビッドに描き出し、かつ分析を試みている。
この書物では、裁判所という組織は、カフカの『審判』、或いはミッシェル・フーコーの「パノプティコン」(円形監獄)の世界(に喩えながら、「囚人から見て看守の姿が現認できなくても」、「監視されているかもしれないという意識、その意識だけで、囚人は、今見られていてもいいように、それに見合う姿勢や動作をとるにちがいない」ような組織として裁判所組織を描き出している。
この書物では、裁判官は「権力の行使者」であるが、同時に「それ以上に、権力の囚われ人である」とされ、具体的に裁判官の裁判執務、配置・昇進のメカニズム、その日常生活等々を通じて、「何か」から「リモートコントロールされ」、「円環操作され、規制されている」状況が具体的に記述され、このような「権力規制」の結果、裁判実務においても過去の先例によって打ち立てられた判断基準が、「根拠や内容を問わずに自動機械として作動」し、裁判は「小刻みな動きを示すだけの小型自動機械」に過ぎなくなっていると断定されている。
正直に告白すると、ここで取り上げている二つの書物の客観性について、筆者は本来かなり懐疑的であった。たまたま、両者とも元裁判官の著者であり、特に瀬木氏についてはたまたま筆者の尊敬する法律家から「裁判官としての実績が芳しくなかった」という趣旨のことを聞かされており、森氏についても、裁判官としては著者自身も記しているように最初に赴任した地方裁判所で赴任した途端に「些細な問題で地裁所長と衝突した」と書かれているところからも明らかで、到底裁判官としての評価は高かったとは思われず、両著者とも裁判所に好意的な見方は期待できないという偏見を拭い去ることが出来なかった。それにも拘らず、両著を読み進むうちに、所謂ひかれ者の小唄というような狭い了見で書かれたものではなく、かなり客観的な立場から書かれたものと評価するに至った)。
森氏の書物では、上述のような大胆な断定の根拠として、主として実際の刑事事件を例として多数の誤判類型の事例を用いて、「権力規制」の結果として「司法囚人」の行う裁判の実情が紹介されている。この種の誤判事例を分析した本書の主要部分は、この極めて大胆な断定をかなりの程度まで説得的に根拠づけることに成功しているというのが、筆者の率直な感想である。
次回以降ではこのような多数の誤判事例の中から,幾つかを選んで紹介した上で、現在の日本の裁判所の絶望状況とその打開の道を探って行きたい。

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