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分裂に向かうEU:復活する国民国家(4)

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秋が来ても
10月10日、ドイツ連邦共和国内で、ISISの影響を受けテロを準備していたと思われるシリア難民アル・バクルと名乗る男(22歳)が、ライプツィヒで同国(シリア)人二人の通報で警察によって逮捕された。男の住んでいたケムニッツChemnitz のアパートで発見された火薬などの量から、2015年ブラッセルとパリで起きた爆弾テロと同規模の攻撃を企図していたと警察当局は推定している。この男はダマスカス出身とされるが、自分に捜査が及んでいるのを察知して、ライプツィヒへ身を隠していたという。

ケムニッツという地名を聞いて、かつて日独経済学会でイエナに旅した時、バスで通ったことを思い出した。ここは、カール・マルクス市 Karl-Marx-Stadtと呼ばれたこともある都市だ。マルクスが生きていたら、何を思ったことだろうか。それはともかく、このシリア人は、いったいなにが目的でどこをテロの対象と考えていたのか、他国のことながら背筋が冷えてくる思いがする。テロがない世界は考えられなくなった。

男は2015年89万人の難民・移民の流れに混じり、昨年2月庇護申請をしていたが今年6月に許可を得ていた。男のテロの目標は未だ明らかではない。さらに3人が関連する容疑者としてドイツ各地で逮捕されている。

アンゲラ・メルケル首相は、容疑者の逮捕に協力したシリア人を賞賛したが、彼女自身は昨年来、難民に対する国境開放政策をとったことで、国内で厳しい政治的批判の対象になっている。ドイツ連邦共和国だけで2015年は100万人以上の難民を受け入れた。その多くはシリア人だった。

メルケル首相がとった国境開放政策は難民からは歓迎されているが、国内では不協和音が渦巻いている。今回の容疑者がシリア人難民であったことは、衝撃が大きい。メルケル首相自体は彼女の政策を取り下げてはいないが、実質上後退を余儀なくされている。

チロルにもブルカの女性観光客
別の例をあげてみたい。やや唐突だが、CNNで、ドイツの隣国オーストリアのチロル地方に、最近は真っ黒なブルカをまとったイスラム女性観光客が多数訪れていることが報じられていた。地域の人々にとっては、今でもかなり違和感があるようだが、数多く見慣れてしまうと、観光旅行者であれば仕方がないかと割り切るようになるという。日本で頭から足先まで真っ黒な衣装の一団が、突然主要な観光地に現れたら、どんな反応があるだろうか。筆者は長らく世界の移民・難民問題をウオッチしてきたが、この問題への日本人の考え、対応は依然大変ナイーブだと思っている。多数の失踪者を出してしまうような制度をそのままにしながら、労働力不足を理由に外国人労働者受け入れ拡大を認めるのは、大変危うい。

難民・移民は、政治家にとっても厳しい難問を突きつけるが、政治哲学的にも難しいものがある。大陸からEUのように百万を越える難民が押し寄せてくるなどの現実に直面すれば別だが、日本人はこうした問題はおよそ真剣に考えたこともない。しかし、台湾の政府関係者から、ある朝目覚めてみたら、海岸線が何千という難民ボートで埋め尽くされていたという夢を見るという話を聞いたことがある。日本人、日本政府はこうした起こりうる事態に、いかなる対策を考えているのかと聞かれたこともあった。

政治家の倫理
こうした問題に対した政治家はいかなる思想の下で決定を下すのか。ひとつのエッセイを読んだ*。最近のアンゲラ・メルケル首相の政治哲学、思想についての推論である。日本の政治状況と比較すると大変興味深い。

ドイツではGesinnungsethik(英:ethics of conviction:信念(しばしば(心情)倫理) とVerantwortungsethik(英:ethics of responsibitily: 責任倫理)という概念が、TVや家庭でも時々話題に上るとの興味深い指摘がある。政治における理想主義とプラグマティズムの対立にもつながるテーマである。「きわめてドイツ的な」特徴を帯びた道徳的緊張感があると社会学者マンフレッド・ギュルナーは述べている。

この概念は元来 マックス・ウエーバー が、1919年ミュンヘンの書店主催での講演の際に使ったことに始まる。ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝も退位したところだった。その後、この政治学の講義は古典となった『職業としての政治』として一般に知られるようになった。ウエーバーは政治家は強い倫理観に持たねばならず、それは信念倫理と責任倫理だという。そして、この二つの倫理の間には”救いがたい”対立があるとした(遠い昔に読んだ記憶が少し戻ってきた)。

次の決断
前者の信念倫理は彼らが抱く道徳的純粋さを現実の世界にいかなる結果が生まれようとも貫くことにある。他方、後者の責任倫理は自分の行為の(予知しうる)結果について責任を負わねばならないという原則に従い、自らの行動のすべてに責任を持つことを意味する。政治家が則らねばならないのは責任倫理であり、(意図しないことも含めて)自らの行動のすべてに責任を持つことだと、ウエーバーはいう。

エッセイによると、今日のドイツは「信念倫理」の氾濫状態(Wolfgang Nowak)にあり、とりわけ左翼とプロテスタントの間に多いという。この政治倫理は今やS.D.(社会民主党)ばかりでなく中道右派にも広がっているが、ヨーロッパの多くはこの流れに賛成していないことが見落とされているという。

このたびの難民・移民に対するドイツ連邦共和国の”welcome culture”はこうした流れの延長で、メルケル首相は「信念倫理」に乗って”早駆け gallop away”(Konrad Ott, 哲学者、移民と道徳に関する著作者)したとされる。2015年9月4日の歴史的な難民への国境開放を生んだ背景である。彼女は人間を受け入れるに”ただの必要で”数的上限を設定することを拒否し、事態は混迷の度を深めたが、未だその立場は変えていない。他のヨーロッパでは、ドイツは”道徳的帝国主義”と非難する者もいる。他方、あまりに多くのことがドイツに要求されると考えるドイツ人もいるようだ。確かに、いつの間にかEUはドイツあってのEUであり、ドイツなしではEUは存在しえなくなっている。

事態がここにいたれば、メルケル首相がどれだけ彼女の信念を大きく損なうことなく、責任倫理の道に戻りうるかということにすべてがかかっているように思われる。 難民問題の最後の切り札と踏み切ったトルコの思わぬ専制強化、混迷も彼女にとっては唇を噛むような思わぬ展開となった。

ここにいたる状況は、本ブログでなんとか追ってきた。この政治倫理概念に頼っての議論は政治理論の専門ではない筆者には、やや抽象に傾きすぎている。

アンゲラ・メルケル首相はノーベル平和賞の候補にあがっていたといわれる。大激動の過程で、彼女がここまで首相の座にあったのは、ひとえに政治家としての強靱さであり、打たれ強さであるともいえる。平和賞の可能性が消えたわけではないと思う。

追記 2016年10月26日
アンゲラ・メルケル首相は、昨年来、大幅に増加した難民について、新たな国民との統合(融合)の努力を進めることを打ち出している。難民と認定された外国人についてドイツ語の習得や技能の訓練過程を経て、国内に雇用の受け入れ機会が生まれることを目指す。これまでの政策との一貫性を維持する上では、当然の方向とはいえ、その前途が多難なことはいうまでもない。ちなみに、今年は25-30万人近い受け入れを予期しているようだ。ドイツ経済が堅調さを維持している現状では、数の上では昨年の約3分の1であり、労働市場の需給関係を大きく乱す可能性は低いと思われる。中長期的に数および質の点で、受け入れ政策は根本的な再考を迫られるだろう。他方、すでに深刻な労働力不足を迎えつつある日本は、対応が遅れてきた反動として、次の世代は大きな衝撃を覚悟しておかねばならないだろう。


Reference: A tale of two ethics, The Economist, October 1st, 2016

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