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朝日新聞がんワクチン報道事件 第四の権力”悪意”の暴走(その4/4)

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■どう解決するのか
朝日新聞はこれまで非を認めていない。事件化してしまった後、議論の方向を逸らそうとすれば、逆の立場からは、卑劣に見える。結果として紛争が拡大した。加えて、朝日新聞社は、逆に、抗議した側を提訴する構えを見せた。言論による解決がさらに困難になった。

先に書いたが、事件とは、司法が最終的に解決できる具体的な紛争である。事態を打開する第一の方法は、民事訴訟である。民事訴訟は私人間の争いを固定化 し、国家が強制的に解決を図る制度である。名誉を傷付けられた中村教授、株価が一時ストップ安になったオンコセラピー社が、事態の解決のために朝日新聞を 訴えたのは当然である。個人の関与が大きいと判断するのなら、記事を書いた出河、野呂両記者の個人的責任について、裁判所に判断を求めたのも当然である。
第二の方法は刑事告訴である。刑法230条の名誉毀損罪によって犯罪かどうか法的に扱うことができる。報道が日本社会全体の脅威になっているとの判断に立てば、刑事告訴も考慮に値する。
加えて、今回の報道は、中村教授の失脚を狙った意図的なものだった可能性が否定できない。上昌広氏は、10月15日という日付に意味があったのではないかと指摘している(「朝日新聞 東大医科研がんワクチン事件報道を考える」 JMM, 2010年10月20日配信)。

「 実は、翌週に控える政府の政策コンテストで、がん治療ワクチン研究への予算要求が審査されます。今回の報道は、この審査に大きく影響することは確実です。」

隠れた意図について調査する能力があるのは、警察・検察だけである。警察・検察がこの問題をどう認識し、どう扱うのか、極めて興味深い。刑事告訴はこの事件の別の側面を明らかにするかもしれない。

■報道被害調査委員会

今回の事件の解決にはつながらないが、将来の同様の事件を解決する方法として、医療事故調査委員会厚労省案方式で、行政が報道を監視するのも一案であ る。多くのマスメディアがこの厚労省案に賛同してきた。マスメディアに過去の言動の記憶と内省があるとすれば、反対するのは難しい。
2007年、医療事故調査委員会厚労省第二次試案が発表された半月後、日本医師会が現場の医師の意見を聴くことなくこれに賛同した。私は「日本医師会の 大罪」(MRIC by 医療ガバナンス学会, 臨時Vol. 54, 2007年11月17日)で、第二次試案がいかに無茶なものであるかを示すために、医療を報道に置き換えた。

1)報道被害調査委員会を総務省に八条委員会として設置する。事務は総務省が所管する。
2)委員会は「報道関係者、法律関係者、被害者の立場を代表する者」により構成される。
3)「報道関連被害」の届出を「加害者側」の報道機関に対して義務化し、怠った場合にはペナルティを科す。
4)行政処分、民事紛争及び刑事手続における判断が適切に行われるよう、調査報告書を活用できることとする。
5)ジャーナリストの行政処分のための報道懲罰委員会を八条委員会として総務省に設置する。報道被害調査委員会の調査報告書を活用して、ジャーナリストとして不適切な行動があった者を処分する。

報道被害調査委員会が作られれば、確実に報道を破壊し、結果として、社会の適切な営みを阻害する。当時、私は、第二次試案に反対する理由を以下のように書いた。

このような異様な制度は、全体主義国家以外には存在しない。全体主義国家ではジャーナリズムが圧殺されたばかりでなく、医療の進歩も止まった。私は、自 由とか人間性というような主義主張のために、過剰な統制に反対しているのではない。この制度が結果として適切な医療の提供を阻害する方向に働くからであ る。
システムの自律性が保たれなければそのシステムが破壊され、機能しなくなる。「システムの作動の閉鎖性」(ルーマン)は、社会システム理論の事実認識で あり、価値判断とは無関係である。機能分化した個々のシステムの中枢に、外部が入り込んで支配するようになると、もはやシステムとして成立しない。例え ば、自民党の総務会で市民団体、社民党、共産党の関係者が多数を占めると、自民党は成立しない。内部の統制は内部で行うべきであり、外部からの統制は、裁 判のように、システムの外で実施されるべきである。

■日経BP社の自律

日経メディカルの2009年10月号に、院内事故調査委員会についての私の文章(「院内医療事故調査委員会の論点と考え方」医学のあゆみ, 230:313-20, 2009.)が紹介された。事実誤認があり、誤った印象が誘導されていたので抗議のために「日経BP社の自律」(MRIC by 医療ガバナンス学会 vol. 316、2009年11月1日)を書いた。最終部分で以下のように述べた。

この件では日経メディカルに謝罪も記事の訂正も求めない。日経BP社の自律の問題とする方が、結果が望ましいものになる。外部からの圧力に対応しようと すると、記事に何らかのゆがみが生じる。問題のある記事すべてに対し、社内調査委員会に外部委員を入れて調査して報告書を作成するとすれば、大きな副作用 を伴う。
これを機に想像していただきたい。医療では、有害事象が入院患者の10%に発生する。不可抗力であったとしても、一旦行き違いが生じると、紛争に発展する。犯罪者とされる可能性さえある。医療はぎりぎりの状況にあり、事故調査はやり方によってはシステムを壊しかねない。
記事を読んだ後、記者に「悲しく思います」と伝え、論文について詳しく説明した。ありがたいことに、日経メディカル11月号にこの件に関して記事を投稿 するよう提案を受けた。ただし、字数が、800から1000字と制限されており、この複雑な問題を扱うのには足りない。このために、この文章を発表するこ とにした。この件に関する私の対応はこれで終了とする。

掲載後、日経メディカルから、ネット上の日経メディカルオンラインに『日経BP社の自律』を転載したいという提案があった。最も望ましい形の解決だっ た。しかし、このような解決を常に期待すべきではない。あらゆる問題に対して、誰もが満足できる解決策があるはずだとすること、ましてや、医療事故調査委 員会厚労省案のように、国家の統制を強めることで解決が実現できるとすることは、幻想であって、論理的帰結でも、現実の観察からの帰結でもない。

■覚悟

2005年、医療事故の扱いをめぐって、警察・検察の行動を批判したことがきっかけで、議論のため検察によばれた。検察首脳には若干の危機感が感じられ たが、その後も、検察の行動は改善しなかった。当時、直接議論相手になった検察官は、大阪地検特捜部の証拠改竄事件でも、危機管理を担当していた。検察の 証拠改竄事件の処理について、様々な意見はあるものの、少なくとも、朝日新聞社の危機管理体制は検察の足元にも及ばない。
検察と朝日新聞は、善悪の予断を強引に押しとおすことにおいて、酷似している。朝日新聞がんワクチン報道事件の構造も、検察の不祥事と似たところがある。記者が、権力と甘い正義をまぶした”悪意”のために、自分と周囲をありのままに認識できなくなり、暴走した。

かつて朝日新聞社に在職していた知人から、朝日新聞社には、編集権と経営権がぶつかったとき、編集権が優先されるという不文律があると聞いた。本当なら ば、現場が編集権を盾に暴走すると、旧日本軍が統帥権の独立を盾に暴走したのと同じで歯止めがかからない。誰が暴走を制御し、誰が責任を負うのか。
文章は、ときに、個人に対して本物の物理的暴力よりはるかに暴力的だったり、権威や制度を破壊したり、人の心までも変えたりする。本稿を含めてある種の文 章を書くには覚悟を必要とする。合法、非合法を問わず、作用の強さに応じた反作用がしばしば書き手に向かうからである。日本ではつい150年ほど前まで、 文章の破壊力の大きさに、死罪をもって対処することがあった。
市民革命が残した最大の成果は、憲法による国家権力の制限である。憲法が表現の自由を保障したことによって、日本では、言論に対する死罪はなくなった。 それでも、あらゆる言論が許されるわけではない。自由主義者ハイエクは、法の下の自由について、「それが意味した自由は、孤立した個人の『自然的自由』と してしばしば述べられたものではなく、他人の自由を保護するために不可欠の規則によって制限された、社会の中で可能な自由であった」(『市場・知識・自 由』ミネルヴァ書房)と説明している。かくして言論による私人の権利侵害は、民法、刑法で制御される。
しかし、現実の社会は、法律だけで運営されているわけではない。法律は社会活動の外縁を規定するにすぎない。通常の社会活動ではめったに生じないぎりぎ りの状況を扱う。このため、価値判断を別にして、実際には、文化を背景にした良識と自律が、場合によっては「個別社会の掟」とでも呼ぶべきものが、社会の 営みの多くを制御する。社会の営みの重要局面では、個人の覚悟が、良識と自律に陰影を与え、掟を対象化し、自己の甘えを削ぎ落す。
朝日新聞で編集権が優先されていたとすれば、記者に加えて、大牟田透科学医療エディターの個人的責任が大きい。問題になった一連の記事が、私人の権利を 侵害する可能性があったことを、彼らも自覚していたと想像する。それでも敢えて掲載する価値があると判断したのだろう。彼らの能力と人格を認めるとすれ ば、それなりの覚悟があったはずである。

本音を述べる。私は、彼らに覚悟がなかったのではないかと想像している。なぜなら、文章を書くことの責任の自覚が、一連の記事に見られないからである。 明瞭な主張で文章の責任を引き受けようとしていない。慎重さは、主張内容の選択ではなく、言い逃れのための、あいまいさやほのめかし表現の工夫にしか見ら れない。
10月16日の社説では、ナチス・ドイツに言及した。安易に東大医科研とナチス・ドイツを並べた。第二次大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所では、医師 が収容者に対し残虐な人体実験を強制的に実施した。骨、筋肉、神経の再生実験、寒冷実験、マスタードガス実験などである。多くの被験者は死亡し、生存者に は障害が残った。ナチス・ドイツのホロコーストでは、ユダヤ人600万人をはじめ、ロマ人、セルビア人やロシア人などスラブ系民族、さらに、身体障害者、 精神障害者、同性愛者が殺害された。犠牲者は900万人から、1100万人とされる。人類史上最悪の所業とみなされ、いくつかの国では、ホロコーストがな かったと主張するだけで、犯罪として扱われる。ナチス・ドイツの人体実験を悪とするための論理が、現代の世界共通の医療倫理を生んだ。社説の記述からは、 書き手が、臨床試験において、ナチス・ドイツを引き合いに出すことの重さを理解していると思えなかった。この社説については、医師たちによって世界の専門 誌に発信されており、今後、世界で議論される可能性がある。

秋山社長は、問題になった記事をじっくり読んで、社会で普通に通用する文章かどうか、さらに、記事を朝日新聞の1面に掲載したいのか、したくないのか素 直に考えるべきである。処分は、覚悟を決めて記事を書く記者の人格を尊重するための、必要不可欠な儀式である。今回のような記事が制御されることなく氾濫 すると、良識ある記者を腐らせる。激情を誘発し、社会を危うくする。
自律とは、何が正しいのか自分で考えて行動することである。かつての戦争を煽った朝日新聞と、現在の朝日新聞は、煽る対象が違っただけで、本質的に変化していない。善悪のフィルターを通した予断で認識を歪め、感情を刺激することで判断を過たせる。
現在進行中のコミュニケーションについての技術と考え方の変化は、マスメディアにとって第二次大戦に伴う変化の比ではない。歴史的視点で自己を評価した上で、未来に向かわないと、空しく漂うのみである。

■結論

インターネットによるコミュニケーションの発達は、マスメディアに、自ら学習することなく相手に変われと命ずるだけの傲慢な態度を許さなくなった。徹底 した学習で自らを変えなければ、朝日新聞は、早晩、終焉を迎える。朝日新聞の対応の如何に関わらず、がんワクチン報道事件は、メディアの歴史を一歩進める ことになろう。

 

2011年2月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会

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