断裂深まるアメリカ(6):国民への道を定めるものは
今年いただいだ寒中見舞いの中に、ブログのタイトルの意味が多少分かってきましたという添え書きのついた一枚があった。有り難うございます。とはいうものの、本人も分かっていないところもある(笑)。いったい、なんでこんなことをくどくどと記しているのかと思われる読者の方も、多くおられるはずだ。他方、対面しての交流ができない以上、もっと書かないと真意は伝わらないとも感じている。しかし、気力、体力ともに続かない。もともと、老化防止のメモ代わりでもあるので、ご勘弁を。
国家形成にかかわる移民問題
この移民問題のディテールも、そのひとつだ。広大な問題領域であり、しかもかなり深く入り込まないと正解は見えてこない。ひとつには、国家の存否、形成にかかわる難しさにつながっているからだと思う。
日本にしても、人口減少がさらに進んでも、政治経済的コントロールが適切に行われれば、中規模国として存立していくことは可能だろう。しかし、さらに高齢化が進み、人口の3人に1人が高齢者ということになったら、今でさえ大変な状況なのに、いかなることになるか。移民受け入れは不可避な選択肢となるだろう。しかし、その現実と具体化は生やさしいものではない。政治家はそれを予知してか、国民的議論の場に乗せることはしない。
ロボット輸入ではないヒトの受け入れ
人口減少以上に高齢化は対処が難しい。「移民」といってもさまざまな形があるのだが、ロボットを輸入するわけではない以上、国民の間で長い試行錯誤の段階が不可欠になる。移民に長い歴史を持った欧米諸国でさえ、厳しい経験を繰り返してきた。時には、フランスの「郊外」暴動、アメリカの9.11との関連など、移民は国家の屋台骨を揺るがすような問題にもなった。
国境の「完全開放」も「鉄の扉」も選択できないとすれば、その間の政策的選択肢は無数に存在する。どこで、いかなる推論の上で、ある折り合いをつけるかという問題となる。アメリカの移民政策をめぐる議論には、長い時間をかけた国民的な試行錯誤のやりとりが含まれている。
このブログでも時々記しているように、現時点で最大の問題は、アメリカについてみれば、移民で国家形成をしてきた国として、今後どれだけ移民を受け入れることが可能か、そして、すでに不法滞在している1100万人近い社会の表に浮上できない人々への対応だ。全員の救済(アムネスティ)が不可能となれば、国民が合意できる基準での選択的合法化が残された道となる。
オバマ大統領の今年の一般教書においても、短い表現ではあったが、高い創造性などの能力を秘めた外国人の留学生を受け入れ、卒業後も国内に留まってもらうことについての言及があった。超党派での移民法改革の必要にも触れていたが、後手を踏んだ大統領としては、それ以外にない。しかし、東京都の人口にも匹敵するような不法滞在者すべてにアムネスティ(恩赦)を与えることは、民主党が下り坂の政治環境では考えられなくなった。
これまでは、犯罪歴などがなく、ある程度の雇用記録などがあり、10年近く実質上、アメリカ国内に居住していれば、かなり厳しく、時に恣意的な選別の上に、合法的居住者としての道が開かれてきた。
どれだけ受け入れ国に根を下ろしたか
重要なことは、合法市民化を認めるか否かの基準として、単に(滞留)年数という時間の経過が重要なのではなく、本人あるいはその家族がいかなる社会生活をしてきたかという点の重みの評価だ。言い換えると、本人の活動、地域の受け取り方の面からみて、社会的メンバーとしていかなる位置づけがなされてきたかということにある。
社会的メンバーシップとは、本人は不法滞留者であったとしても、その後の合法生活者(アメリカ市民)との結婚、入国後今日までの雇用(仕事)の内容、地域社会での活動などを通して、どれだけ米国社会の構成員になっているかとの評価になる。しかし、その状況は個人差が大きく、実務上の判定も恣意的になりがちで、判定に時間もかかり効率的ではない。近年、市民権取得が困難になっている理由のひとつではある。
現実の複雑さをいかに処理するか
筆者の知人(日本人)が、アメリカ人と結婚したが、アメリカ入国後、ことあるごとに偽装結婚ではないかと入国管理官から監視されているようだとこぼしていた。この問題をテーマとした数々の映画、たとえば『グリーンカード』もあるほどだ。
市民権付与の判定について、入国管理官などの現場に裁量権を与えると、対応が複雑化し、差別的になりかねない。時間もかかり効率も低下する。しかし、1100万人にアムネスティは出せないとなると、なんとか、多くの国民が合意、納得できる選択基準を設定したいというのが、移民問題をめぐる議論のひとつだ。移民受け入れの経験が少ない日本では、国民の間に、こうした問題について地に着いた議論をする土壌はほとんど形成されていない。したがって、狭い個人的経験などを背景にした粗雑な議論が横行する。
滞留年数は移民(不法滞留者)の社会的同化の程度を示す尺度として、どの程度つかえるだろうか。アメリカのような移民で立国、国家形成をしてきた国では国民の間での時に激しいやりとりを通して、今日のごとき枠組みが形作ってきた。その仕組みをいかに組み立て直すのか、もう少し考えてみたい。(続く)